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三井寺再興の大恩人・道澄准三宮

1.道澄400年大遠忌報恩法要

 2008年6月28日、浄満寺准三宮道澄尊儀の400年大遠忌報恩の法要が、道澄尊儀の位牌をまつる三井寺釈迦堂において長吏猊下大導師もと一山僧侶総出仕で厳修されました。また法要後は、道澄が葬られた三井寺北谷の武士ヶ谷墓地に赴き、墓前において報恩回向の法要が執り行われました。


2.安土桃山時代を代表する高僧

 道澄は、天文13(1544)年、恵雲院関白近衛稙家の三男として生まれ、叔父に当たる聖護院道増大僧正から戒を受けて三井寺の僧となられました。その後は第137代三井寺長吏、聖護院、照高院両門跡の門主を歴任され、後陽成天皇、後水尾天皇の身近に仕えられました。また織田・豊臣・毛利などの各大名家からも深く帰依され、豊臣秀吉が京都に建立した大仏方広寺の住持としても活躍されました。

三井寺再興の大恩人・道澄准三宮  三井寺再興の大恩人・道澄准三宮


3.三井寺中興の祖

 文禄4(1595)年に発せられた闕所令により存亡の危機をを迎えた三井寺を救ったのも道澄でした。道澄は、豊臣家はじめ徳川家、毛利家からの援助を得て、現在の金堂(国宝)や唐院(重文)などの諸堂社を再興し、三井寺の復興に尽力されました。現在では、「慶長期の復興」を実現した大恩人として三井寺中興の祖と仰がれています。

三井寺再興の大恩人・道澄准三宮  三井寺再興の大恩人・道澄准三宮


4.文化人としての名声

 道澄は、仏教のみならず和歌や連歌の道にも深く通じられ、当代一流の文化人として知られていました。天正16(1588)年、親交の篤かった毛利輝元が上京したとき、道澄は懇切にもてなし、豊臣秀吉の招待により聚楽第で催された8月15日の名月の歌会には輝元と共に出席しています。そのとき詠んだ秀吉と道澄の歌を『輝元公御上洛日記』は伝えています。      

名も高き今夜の月の音羽山詠にあかし夜はふけぬとも   豊臣秀吉
くる秋のかつ色みする草むらに露おきそふる朝ぼらけかな 准三宮道澄

 また、同年10月29日には輝元を三井寺に案内し、道澄主催の歌会を催しています。その時の和歌も残されています。  

見せはやと思ひし秋の色うすき長等の山の志賀の浦風  准三宮道澄
海山の名にし負ひたる秋の色深き心の程は見へけり   参議輝元


5.1608年6月28日、三井寺で遷化

 三井寺の再興も一段落ついた慶長12(1607)年、道澄は京都の大仏方広寺の管領を聖護院興意親王に譲られ隠退されます。そして、翌年6月28日、三井寺北院の上光院において遷化されました。享年65歳でした。

三井寺再興の大恩人・道澄准三宮  三井寺再興の大恩人・道澄准三宮


6.三井寺慶長期の復興

慶長期に再興された主な堂宇
年代 指定 堂宇の名称 寄進者名 備考
慶長3年(1598) 重文 唐院大師堂 照高院門跡道澄  
慶長4年(1599) 重文 唐院唐門 照高院門跡道澄  
重文 唐院潅頂堂 照高院門跡道澄 四脚門(重文)は寛永元年の再建
国宝 金 堂 豊臣秀吉北政所  
  金堂鐘撞堂   霊鐘堂前身建物
  教待堂   現存建物は再建
  三尾社拝殿   廃絶
慶長5年(1600) 重文 閼伽井屋 豊臣秀吉北政所  
国宝 勧学院客殿 毛利輝元  
慶長6年(1601) 重文 大 門(仁王門) 徳川家康 移築(旧常楽寺楼門)
重文 三重塔 徳川家康 移築(旧比蘇寺塔婆)
国宝 光浄院客殿 山岡道阿弥景友  
  熊野社 照高院門跡道澄 現存建物は天保期の再建
  新羅社拝殿   廃絶
市指定 護法社本殿 照高院門跡道澄 現存建物(市指定)は享保期の再建
  護法社拝殿 照高院門跡道澄 廃絶
県指定 水観寺薬師堂   現存建物(県指定)は明暦期の再建
慶長7年(1602) 重 文 鐘 楼(三井晩鐘) 照高院門跡道澄  
重 文 一切経蔵 毛利輝元 移築(旧国清寺経蔵)

※ 現在、三井寺には慶長期に再建・移築された建物が、国宝三棟、重文八棟、合計十一棟が残されている。




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