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端午の節句



五月五日は端午の節句である。古代、中国で始まったもので、端というのは「初め」の意味、端午とは月の初めの午(うま)の日を意味する。中国・夏(か)の時代の暦法「夏正(かせい)」によれば、五月は午の月に当たるが、その午の月の午の日を忌日(いみび)として、災厄や不浄を除くために祓(はら)えを行なった。また、蓬(よもぎ)でつくった人形を軒下に吊るし、菖蒲(しょうぶ)を浸した酒を飲み、蘭を浮かべた湯に入るなどした。


(ご)が五に通じることから、五月五日を端午の節句とするようになったのは、漢代以降のこと。月と日の数字が重なる日を、陰と陰が重なる、陽と陽が重なる、善悪ともに倍加するとする重日(じゅうにち)思想によっても、この日は忌日とされた。


菖蒲が祓えに用いられるのは、その香り高さが邪気を払い、疫病を除くと考えられたから。



 
端午の節句には粽(ちまき)を食べる。この日に粽を食べるようになったのは、中国・戦国時代の楚(そ)の国の政治家であり、国民的愛国詩人であった屈原(くつげん)の命日、五月五日にまつわる故事が紛れ込んだからである。


楚の王族に生まれた屈原は、才能と忠誠心により国王の側近として国政にあずかったが、上官に妬まれて失脚。故郷に帰り、農耕のかたわら憂国の詩を書く。楚に伝わる歌謡をもとに、激励な感情を朗誦する「楚辞」文学の完成者、代表的作家として、中国の人々に熱烈に迎え入れられる。


しかし、敵軍の近づくのを噂に知り、放浪の末、長江(揚子江)・汨羅(べきら)の淵に石を抱いて身を投げた。紀元前二七八年五月五日のことである。


汨羅には大きな鯉が棲んでいて、屈原の亡骸をくわえると、汨羅から長江を溯り、屈原の姉に亡骸を引き渡す。姉は廟を建て、ねんごろに弔うが、屈原を慕い哀れむ楚の人たちも、命日になると、竹の筒に米を入れて川に投げ込み、屈原の霊を慰めた。それは、屈原の亡骸を運んだ鯉に対する感謝でもあった。


米を竹の筒に入れたものが楝(おうち)(栴檀(せんだん))の葉で米を包み、五色の糸で縛ったものになり、茅(ちがや)の葉で巻く粽から、現在の笹や葦(あし)、菖蒲で巻く粽となった。


端午の節句が日本にもたらされたのは平安時代といわれる。貴族たちの間で、菖蒲を軒に挿し、粽を食べ、蓬で人形をつくったりした。鎌倉時代になると、菖蒲が「尚武」(武事、軍事を重んずること)に通じるとして武士の間でも盛んになり、室町時代には武者人形が飾られるようになる。  


男子誕生の喜びを世間に知らせ、健康と立身出世を願う鯉のぼりが立てられるようになったのは、江戸時代から。
 
武者人形
黄河中流域にある竜門と呼ばれる急流の滝を登りきれるのは鯉ただ一つで、滝を登って鯉は竜になるといわれた。ここを登竜門というが、鯉は出世魚とされ、それを表わす鯉のぼりとなった。鯉のぼりも武者人形も日本特有のものである。



柏餅
 
日本の旧暦五月は田植えの季節である。田植えを前に、田の神を迎え、豊穣を祈る祓えの日が五月五日でもあった。


ちなみに、端午の節句に粽とともに食べる柏餅は、柏の木は次の新芽が出ないうちは古い葉が落ちないことから、家系が絶えないという縁起をかついで。








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