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河内の新羅神社(4)

二.河南町の白木(新羅)神社(続き)  

白木村を説明した資料は幾つかある。『大阪府志』によれば次のとおり。「村名の白木は新羅の国訓に通ずるのみならず北方に多々良といえる字地あり。多々良は新羅城邑の名なり。蹈鞴津の名、新羅にあり。されば恐らく往時の帰化したる新羅人の住せしより、この名をなせしに非ずや。多々良津にちなむ蹈鞴津は、現在の慶尚南道多大浦の古名である。この地方が新羅渡来人の居住地であったことを証明する古墳が芹生谷にある。金山古墳である。この古墳は新羅に見られる瓢形墳(双円墳)である」。全体の地形は小山のような丘が二つ並んで畑の中にある。古墳ほぼ東西を向き大丘が東、小丘が西で中間のクビレ部の西側に横穴式石室の入り口がある。

応神天皇陵   『河南町誌』によれば、「長坂(白木役場の近くの地名)の北に多々良という字地があり、この地は多々良村といわれ、多々良の宮という神祠があったといわれている。この地に勢力を持っていた多々良氏は朝鮮新羅の王族が帰化したもので、シラキ(白木)の名はこれから生まれた」と説明がある。また、安永の頃(一七八〇頃)今堂村から出た学問僧白庸法師の小伝に「河内石川郡新羅(白木)に生まる…」とあるので当時迄は新羅の文字が使われていたようである。長坂村の人々は白山権現と称したが明治十三年白木神社に合祀した、という。なお「たたら」という用語は古代の製鉄炉を意味する。蹈鞴である。鉄穴師、韓鍛冶(四世紀―五世紀)であると思われる。この地は古代に新羅系の氏族が入植したものであろう。何れにせよ古代朝鮮からの伝来である。この「白木村」は『住吉神社神代記』の生駒神南備山本紀に「河内国白木坂」の名が再三でてくるので千数百年前からこの地方は「白木(新羅)」とよばれていたのであろう。
  建水分神社の由緒については『御略記』に「創建は崇神天皇五年(前九十二)に金剛葛城の山麓に水神として建水分神を奉祀された」とある。崇神天皇は御間城入彦と言われ朝鮮半島の任那(加羅地方)と係わりが深く新羅系渡来人とも係わりが深い。水分とは「水汲」のことである。当社は古くは水分大明神、上水分宮とも称し、富田林市宮町の下水分宮と対になっていた。
  河南町の東南、太子町と奈良県当麻町に近い場所に「磐舟神社」がある。饒速日命らが初めて天降りした河上たける哮ケ峰であると伝えられている。社殿の背後に奇岩、巨岩が重なって存在している。古代の岩盤であろう。

三.富田林市の錦織神社

錦郡郡の百済郷にあった。百済系の渡来氏族である錦織氏族が祀った神社でと言われているが古くは当地の産土神として「水郡天王宮」とも「牛頭天王」、「爾吾里宮天王」ともいわれた。祭神は素盞鳴命、品陀別命、菅原道真の三神である。三水分の一つといわれ下水分宮と称されたという。現在の社殿は鎌倉時代、錦織郡判官代の錦織俊政が祖廟として建てたもの。錦織連でこの地に残留した一族が鎌倉の頃「三善一族」と称し錦織判官代として栄え地方武士団となった。錦織源氏は新羅三郎義光の子孫からでている。


京都市の新羅神社(その三)

河内国の次は兵庫県の神社を記載の予定でしたが、京都府の中心部の神社が抜けておりましたので、ここで若干の記述をさせていただきます。
  京都市の中心部は延暦十三年(七九四)桓武天皇が平安京を築いて以来、明治時代まで天皇の都として栄えた地である。桓武天皇は天智天皇の系譜の天皇であり、天智を慕い何度も近江を訪問している。梵釈寺は有名。京都は政治の都であったが故に何回かの戦乱の舞台になってきた。そのためその時々の政治情勢により、神社や寺も大きな影響(被害)をうけている。政変の都度、古い神社が焼失したり、あるいは新しくできたりしている。桓武が百済系の天皇であったので古い新羅系の神社は消されてしまったものと思っていたが、予想以上に多くの新羅系の神が現在も生き残っていることを知って驚いている。


一. 園韓神社

『貞観式』『延喜式』には、宮中に祭られる神として園神一座、韓神二座との記載がある。古来この神は、園神は素盞嗚尊の子孫・大物主神・大己貴命の和魂といわれ、園神の園は「新羅のソ」であり「新羅の神」といわれる。韓神についてもこの神は大己貴命と少名彦命の二神であるといわれる。韓神は文字通り朝鮮半島から渡来した神の意味で、辛国と同意で新羅を意味するとされている。園神は平安京大内裏の宮内省内の北西に祀られ、園神は南、韓神は北に坐したといわれている。この神々は奈良平城京に祀られていたと思われ、現在も奈良市漢国町に「漢国神社」として祀られている。
  京都市史編纂所『京都の歴史』の中にある京都の古社図(平安京時代)に、「園韓神社」が記載されており、場所は堀川沿いで二条城のあたり(平安京の大内裏の中)に描かれている。京都の古社の説明に「平安京遷都以前からの古社は多い。もともと神祇信仰は民間のものであるから人々が生活しているかぎりそこにやしろがある。典型は天神社である。農耕神として広く人々の信仰を集めていた。また古代氏族の氏神も多く秦氏の松尾・稲荷神社、出雲氏の出雲井於・出雲高野神社などがある」と記載がある。園韓神については、『新撰京都叢書』第二巻に「醒井通高辻北、今は荒神という。延喜式に言、園神一座・韓神一座と云云。もとは宮内省にあり。大内裏の時の宮内省は大炊御門の北、匳の西にあり。延暦年中長岡の都を此京にうつされし時、此神を他所に移されんとせしに、神託ありて永く此地に止り帝都をまもらんとなり。此ゆへに、宮内省にありしを大内裏炎上の後、此処にうつされたり」と説明がある。
 

(東京リース株式会社・顧問)






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