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第四番札所 施福寺
難所、高所はお手のもの
べんべんと行く西国三十三所霊場めぐり寺門高僧記 第四番札所槙尾山施福寺は、いずれのガイドブックにも屈指の難所であると記されている。阪和道の岸和田和泉インターから国道170号線を出て、槙尾中学前交差点を右折、府道228号線を槙尾登山口へと進む。さらに曲がりくねった山道を走り、深い谷をいくつか超えると駐車場に出る。少し先を見ると古色蒼然とした仁王門と休憩所を兼ねたお土産屋さんが見える。これから先、自販機はない。水分の補給のラストチャンス。べんべんは大好きなコカ・コーラーをたっぷり補給する。

「じゅんれい道」と刻まれている口有馬道標 いよいよ観音八丁と呼ばれる険しい山道の出発点。さて、べんべんがこの難所を歩き通せるか、緊張の面持ちで最初の一歩を踏み出した。

 現在槙尾山施福寺は西国霊場の四番札所であるが、西国巡礼最古の記録である三井寺の行尊(一〇五五)年の巡礼記では七番札所となっている。これは行尊のころには、専門的な僧侶や修験者が行うものであった霊地巡礼が、平安後期ころから浄土教の隆盛とともに熊野が阿弥陀の浄土とされるようになり一般の巡礼者が増え「蟻の熊野詣」と称される熊野信仰が盛んになった。

べんべんと行く西国三十三所霊場めぐり  その結果第一番が那智へと変わり、さらに鎌倉時代も末から室町時代になると、関東からの一般巡礼者が増えはじめてくる。彼らは東海道や中山道を経て、まず伊勢参りを済ませた後、東熊野街道を通って那智青岸渡寺に向かった。その後は和歌山を経て、奈良から京都、滋賀へと向かうような現行の順序になったと考えられる。

べんべんと行く西国三十三所霊場めぐり  施福寺は大阪府和泉市にある天台宗のお寺である。古くは槙尾山寺と呼ばれた山岳寺院で、葛城修験系の寺院として創建されたものと考えられる。南北朝時代成立の寺史である『槇尾山大縁起』によると、施福寺は欽明天皇の時代、播磨国加古郡の行満上人が創建したものである。また、修験道の開祖である役小角(役行者)が自ら書写した法華経の巻々を葛城山の各所の秘密の場所に埋納し、最後に埋めたのがこの山であったことから「巻(まき)尾(お)」の名が付いたとする地名起源伝承も残っている。また弘法大師空海も当寺で修業を積んだと伝えられ、仏門に入ることを決心して剃髪した御髪堂が山頂近くにある。

ダイヤモンドトレール
 やや軽い目の登山スタイルのグループが、べんべんを追い抜いて行く。登山者同士の気持ちの良い挨拶「こんにちは」の後に必ず「本当にこの格好で山頂まで登るの」と怪訝な顔で話しかけ、そして「何処から来たの?」「何処のユルキャラ?」「写真撮っていい?」「握手してくれる?」など、求めに応じながら一歩一歩山道を登る。



 ここ槙尾山は奈良県・大阪府・和歌山県の府県境を縦走する長距離自然歩道、ダイヤモンドトレールの最終地点である。全長約45キロもある本格的なトレッキングコースで、訪れるハイカー達の数は想像以上に多い。特に中高年の愛好グループが「二上山エリア」「葛城山エリア」「金剛山エリア」など各々の体力に合わせ、山道整備されたコースに汗をかく。そんな健康志向の中高年が、葛城山系に代表される修験の道の一部を歩く。単に、体力維持や自然と親しむだけではなく、自己を見つめる場として苦しみに耐え、自分の足で歩き通そうとするのであろう。



 日本では古来より、山は神の住むところとして畏れられていた。そんな山岳信仰が仏教に取り入れられ、各地の霊山を修行の場として過酷な苦行を行い、超人的な験力をたくわえ、衆生の救済を目指す実践的な宗教が修験道である。その修験道の開祖が役行者である。



 三井寺の開祖・智証大師は、比叡山での一紀十二年の籠山修行を終えた承和十二(八四五)年、三十二歳のとき、役行者の足跡を慕い、大峰、熊野三山の深山に分け入り、一千日の参籠修行を行なったという。のちに「三井修験」、「本山派修験」と呼ばれる天台系修験道の起源として大いに賞揚され、天台教学の両翼である顕教、密教の二教に修験道を加えた三井寺独自の「三道融会」と称される教風を確立することになった。

 べんべんは、苔むした石段を慎重に登る。一足早く下山する婦人グループには道を譲り、写真用のポーズを付け、握手を求められればそれに応じ、得意のほら貝を披露する。すっかり人気者になったべんべん、途中でリタイアする訳にもいかず、おおよそ一時間かけて本堂のある、槙尾山頂手前の小高い広場にたどり着いた。

霊気あふれる深山の寺
 第四番札所、槙尾山施福寺の本堂にお参りする。『深山路や 檜原松原わけゆけば 槇の尾寺に 駒ぞいさめる』とある御詠歌が流れるなか、御朱印をいただき堂内を参拝する。本堂正面には当山の本尊、弥勒菩薩坐像。右に文殊菩薩立像、左が西国札所の本尊、十一面千手千眼観音立像が厳かな表情で参拝者をむかえる。

 この千手千眼観音立像には次のような説話が残されている。宝亀二(七七一)年のこと、当時槙尾山寺に住んでいた摂津国の僧・法海のもとに、一人のみすぼらしい恰好をした修行僧があらわれ、夏安居(げあんご)の期間をこの寺で過ごさせてくれと頼んだ。この修行僧は客僧として槙尾山寺に置いてもらえることになり、夏安居の期間、熱心に修行に励んだ。予定の期間が終わって寺を辞去しようとする際、客僧は帰りの旅費を乞うたが、寺僧はそれを拒んだ。すると客僧は怒り出し「何ということだ。このような寺はいずれ滅び去り、悪鬼の棲家となるであろう」と叫んで出て行ってしまった。驚いた法海が後を追うと、修行僧ははるかかなたの海上を、沈みもせずに歩いている。これを見た法海は、あの修行僧は自分らを戒めるために現れた観音の化身であったと悟り、千手千眼観音の像を刻んで祀ったという。



 また、堂内には西国札所巡礼の中興の祖、花山法皇が祀ったとされる立派な馬頭観音像がある。法皇が巡礼途中、粉河寺からこの施福寺に向かっていた。日が暮れて道に迷って困っていたところ北の方角に馬のいななきを聞き、それを頼りに無事到着することが出来た。法皇はこれこそが馬頭観音のお導きと感じ、本堂裏に馬頭観音像を安置したという説話は、当山の御詠歌のよりどころとなっている。

 広場からは遠く金剛山、岩湧山などが一望でき、紅葉の名所としても知られている槙尾山。三々五々、おにぎりをほおばるハイカーに「お一つどうぞ」と勧められるべんべん。残念ながら手も足も出せぬべんべん。しかし、自らの空腹も顧みず、多くのハイカーの励ましに感謝して、最後に大きくほら貝を吹いた。

補陀洛山寺本堂




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