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第六番札所 壺坂寺
眼病予防の観音様が見守る
べんべんと行く西国三十三所霊場めぐり 寺門高僧記  ワゴン車は春の日差しを受け、西名阪道を奈良県高市町にある第七番札所壺坂寺をめざす。壺坂寺は浄瑠璃『壺坂霊験記』でも知られる、眼病平癒の霊験あらたかな十一面千手観音を本尊とする札所である。

 高取町は古くから、くすりの町として知られ、今も製薬業が盛んに行われている。日頃の不摂生もなにするものぞと、スタミナドリンクを飲み準備万端のべんべんである。

参詣客にとりかこまれるべんべん 三井寺の魅力を伝えるべく活躍するべんべん。キャラクター多しといえども、ほら貝を吹くキャラクターはべんべんより他にない。べんべんは正面の仁王門前に立ち、心こめて今回の旅の安全を祈願。近くの参詣者につかまり、すぐに写真用のポーズをとり、「はじめまして三井寺のべんべんです」と名刺を渡す大忙しのべんべんである。

壺坂大仏を中心に堂塔がひな壇に並ぶ  壺坂寺は奈良盆地が一望できる高取山の頂にある。北方への視界が開け、畝傍山から甘樫丘、明日香の里を始め、遠く二上山、葛城山、生駒山も一望できる。

 歴史ロマン満載の広々とした境内を歩く。中心部はひな壇のように造成され、堂塔はその最上段に立ち並んでいる。古色を帯びた三重塔や八角堂に交じって、昭和に建立されたインド渡来の大観音石像や、平成十九年に開眼した大釈迦如来石像(壺坂大仏)などが安置され、独特の雰囲気を醸しだしている。

 当寺は昭和三十年代ごろから社会福祉事業へのとり組みを深め、目の不自由な人のための老人ホームなどを運営。また仏教発祥の地インドで、ハンセン病患者の救済などにつくした縁で、インドとの交流は今も続いている。



天竺渡来大観音石像の前で  べんべん一行は「眼の観音さま」として信仰篤い本尊の十一面千手観音像を礼拝ののち、御朱印を受け山内を巡る。当日は平日にもかかわらず朱印や眼病予防の目薬を所望する人の数は絶えない。べんべんはそんな参詣者に愛想を振りまき、西国札所十四番三井寺の広報活動をするのであった。

お里澤市の夫婦愛
 浄瑠璃『壺坂霊験記』は明治十二年に初演された浄瑠璃の演目で、盲人とその妻の夫婦愛を描いた世話物。歌舞伎や講談、浪曲の演目にもなり、「妻は夫をいたわりつつ、夫は妻を慕いつつ」のフレーズが一大ブームとなる。

左:お里澤市像 右:天竺渡来大涅槃石像



 話は、盲目の澤市は妻のお里が明け方になると、出かけるのに気づき、男ができたのではと疑い、妻を問い詰める。お里はこの三年間、澤市の目が治るようにと壺坂寺の観音様に願掛けに行っていたと打ち明ける。邪推を恥じた澤市は、お里とともに観音詣りを始めるが、目の見えない自分がいては将来お里の足手まといになると考え、満願の日にお里に隠れて滝壺に身を投げる。夫の死を知り悲しんだお里も、夫のあとを追って身を投げてしまう。二人の夫婦愛を聞き届けた観音の霊験により奇跡が起こり、二人は助かり、澤市の目も再び見えるようになる。

 三重塔東側には『壺坂霊験記』の主人公、お里澤市の像が建ち、本堂横の崖は澤市が身を投げたと伝わる谷がある。べんべんは入念に二人の御霊を弔い、次の訪問地、第七番札所岡寺に向かう。

第七番札所 岡寺
大化の改新の表舞台で
べんべんと行く西国三十三所霊場めぐり 寺門高僧記  古代史の中心、飛鳥野の山麓に建つ第七番札所岡寺に参る。かつて参詣者の宿場町として栄えた岡集落には、石畳が敷かれた参道や土蔵つくりの古い農家が残り、飛鳥の里の雰囲気を色濃く残している。

 駐車場を降りて坂道を少し行けば鮮やかな朱色に映える仁王門がある。書院・開山堂・本堂が山の斜面に不規則に配置されている。正式名称の龍蓋寺より、地名から付けられた通称の岡寺の方が通りがよい。

大勢の参詣客に囲まれて  岡寺は天武天皇の皇太子、草壁皇子が住まいした岡宮を太子没後、義淵がもらい受け、寺に改めたのが始まりとされる。義淵はわが国法相宗の祖とされ、『東大寺要録』には、草壁皇子との関係について次のように記されている。

 大和国高市郡の子宝に恵まれない夫婦が観音に祈願していると、夜中に赤ん坊のなき声が聞こえた。外に出ると柴垣の上に白布でくるまれた赤子がおり、夫婦は家に連れて帰り観音様から授かったと喜んだ。この話を天武天皇が聞き、自ら引き取って養育した。それがのちの義淵僧正で、孫の草壁皇子とともに岡宮で育てたという。

 岡寺は平安時代後期には西国観音霊場として信仰され、鎌倉時代には厄除け信仰も広まった。十二世紀末成立の『水鏡』冒頭には「つつしむべき年にて すぎにし きさらぎの初午の日 龍蓋寺へもうで侍り」と記されており、二十五歳を迎えた男子は必ず龍蓋寺へ詣でたという。

義淵和尚の墓 最大の大きさを誇る塑像の観音座像  本堂正面にはひときわ大きな塑像が、本尊如意輪観音座像である。塑像(土で造られた仏様)で、弘法大師の作と伝えられ、塑像としてはわが国最大の仏像であり、重要文化財に指定されている。

 べんべんはその大きさに感動しつつ般若心経をとなえ、御朱印をいただく。またこの地に伝わる龍神伝説も拝聴する。昔このあたりに暴れ者の龍がおり、強風を起こし大雨を降らせ田畑を荒らしていた。困り果てた農民が義淵に助けを求めたところ、義淵は観音から授けられた法力で龍を小池に封じ込めた。そして梵字の阿を彫り込んで大石で蓋をした。龍蓋寺本堂前の池がそれで、寺の名前の由来がここから来ているという事に納得、三井寺にも龍神伝説があることを思い出す。

 さて、帰路に着く前、岡寺の石楠花は見事だという話を聞いた。べんべんはその頃もう一度訪れようと思った。

一歩足を延ばして飛鳥野へ
 飛鳥の里へ来たからにはと、むかし遠足でしか来たことがなかった明日香村探索へ。今回は三井寺と縁の深い天武・持統天皇陵を中心に、日本最古の寺飛鳥寺を巡る。

まずは天武・持統天皇陵へ
石舞台古墳と亀形石造物

 三井寺は天智・天武・持統天皇の産湯に使われたことが名前の由来になっている。そんな三帝は、古代史上最大の内乱といわれた壬申の乱の表舞台に登場し、のち日本国家の礎を築き、華々しくこの飛鳥野を終焉の地とした。

 天武天皇は、兄である天智天皇の遺志をつぎ、中央集権国家の形成を推し進め、壬申の乱に勝利し皇位に就いたが、六八六年九月病により崩御した。持統天皇は天武天皇の皇后であり天智天皇の娘である。天武天皇とともに中央集権国家の確立に尽力した。天武帝亡き後即位し、藤原京の造営を行っている。

天武・持統天皇陵  檜隈大内陵と呼ばれたこの天武・持統陵は、藤原宮の南方中軸線上に営まれ、八角形の五段築成と考えられている。天武帝のために築かれたが、後に七〇二年に亡くなった持統天皇が火葬され合葬されることとなった。

日本最古の飛鳥大仏が
 五九六年蘇我馬子が発願して創建された日本最古の寺院である。飛鳥野にある代表的な寺院で、本尊の飛鳥大仏は鞍作鳥(止利仏師)によって造られた日本最古の仏像である。平安・鎌倉時代の大火で全身罹災するも、飛鳥彫刻の特色を今に伝える。さて、この飛鳥野には石舞台古墳をはじめ、亀石や鬼のまないた、鬼のせつちんなど興味深い名前のついた古墳群があり、広く公園整備されている。

日本最古の仏像 飛鳥大仏




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