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第二十二番札所 総持寺
亀に乗った観音さま
べんべんと行く西国三十三所霊場めぐり べんべんの札所巡りも大阪府に入る。第二十二番札所・補陀洛山総持寺は、茨木市にある高野山真言宗の霊場、本尊は千手観音さまである。亀に乗っ観音として知られ、寺号が刻まれた石標の台座も亀である。べんべんも体は甲羅のあるカメさん、ご縁に感じ入ることしばし、さっそく山門をくぐって本堂に参拝してご朱印をいただく。


 



 観音さまと亀とのご縁は、平安時代の公卿・藤原山蔭(八二四〜八八八年)にまつわる助けた亀の恩返しと観音の霊験を伝える草創縁起に由来する。
 桃山時代の巨匠・海北友松の子・友雪(一五九八〜一六七七年)が描いた『総持寺縁起』の伝えるところでは、山蔭の父・高房が九州太宰府へ向う途中、淀川で漁師たちに捕らえられていた亀を助けた。その夜、まだ幼い山蔭が、継母のたくらみにより河に落とされてしまう。高房が観音さまに祈ると、助けた亀が山蔭を乗せて水中から現れた。観音さまのご恩に感謝した高房は観音像の造像を発願、中国から香木を求めた。高房の死後、この香木は海を渡って流れ着き、山蔭のもとに。さっそく仏師を探して長谷寺の観音さまに祈願したところお告げにより門前の子供に彫刻させることになった。子供は千日間こもって見事な亀に乗った千手観音像を彫り上げて忽然と姿を消した。この子供こそ長谷の観音さまの化身であったという。

 この縁起譚は『今昔物語』巻十九には「亀、山陰中納言に恩を報ぜる語」として、こちらは山蔭の愛児が助けた亀に救われる説話として収録されている。この子供は如無(八六七〜九三八年)と名付けられ仏門に入り、宇多法皇の近侍僧にまでなっている。



山蔭の孫は藤原道長の母

 総持寺は、この観音さまを本尊として山蔭の三回忌に七男七女が協力して堂塔伽藍を建立、寛平二年(八九〇)に落慶法要が行われたと伝えている。こうした経緯は『朝野群載』に収められた山蔭の子・公利による延喜十二年(九一二)銘の「総持寺鐘銘」にも記録されている。

 同じく山蔭の子・中正の娘・時姫は、藤原兼家に嫁ぎ、道隆、道兼、道長、超子(冷泉天皇女御)、詮子(円融天皇女御)を生み、三条、一条両天皇の祖母になっことから寺は隆盛を迎えることになる。戦国時代になり元亀二年(一五七一)に焼失、豊臣秀頼によって慶長八年(一六〇三)に再興された。

包丁道の祖・山蔭

 山蔭は、長谷観音の化身の子供が千手観音像を彫り上げるまでの千日間、欠かさず自らの手で料理をお供えしたことから「包丁道の祖」として、また光孝天皇の命により宮中料理の方式を定めた四条流包丁式の創始者として崇められている。その由縁から境内には包丁塚があり、いまも料理人たちの信仰を集め、毎年四月十八日には古式に則り包丁式が奉納されている。べんべんが訪れたとき、完成間近だったJR総持寺駅の開業記念式典が去る三月十七日に行われ、記念イベントとして「庖丁式」が披露されたという。

 また山蔭は、京都の神楽岡に吉田神社を創建しており、後に奈良の春日社、長岡京の大原野社とともに藤原氏一門の尊崇するところとなっている。
 さて、べんべんも開山堂などを巡拝、放生池にやってくると亀が甲羅干しをしている。うららかな天候に恵まれ、ほころび始めた梅に見送られながら次の札所・勝尾寺を目指す。




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