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第三十一番札所 長命寺
蒲生野とムベの実
べんべんと行く西国三十三所霊場めぐり 大津に都を遷した天智天皇は、六六八年五月五日端午の節句に蒲生野で薬猟を行っている。蒲生野は、琵琶湖東岸の旧蒲生郡、現在の竜王町をはじめ東近江市や近江八幡市にまたがる地域に広がっていた。

 あかねさす紫野行き標野行き
      野守は見ずや君が袖振る

額田王
 むらさきのにほへる妹を憎くあらば
   人妻ゆゑに我れ恋ひめやも

大海人皇子(天武天皇)
 蒲生野を舞台に天智・天武両天皇と額田王のロマンスを彩る歌として語り継がれている。また天智天皇と霊果「むべ」にまつわる伝承も残る。「むべ」は「郁子」と書くアケビ科の植物で、秋には卵大の赤紫色の果実が実る。天智天皇が、蒲生野で老夫婦に出会い、その長寿の秘訣を尋ねたところ、当地で採れる果物を食べているからですと答えた。それを口にされた天智天皇が「むべなるかな」と言われたことから「むべ」と呼ばれるようになったという。蒲生野の北、長命寺山の北峰に連なる奥島山に自生していたもので、当地ではいまも大切に栽培されている。  


三尊一体の観音さま

繖山から望む蒲生野 三井寺を出発したべんべん一行は、琵琶湖の東岸に沿って湖岸道路を進む。車窓からは夏空の下きらめく湖面が広がっている。走ること約一時間半、西国第三十一番札所・長命寺は、琵琶湖を望む長命寺山(山号は姨綺耶山)に鎮まっている。現在は近江八幡市であるが、もとは旧蒲生郡であった。先代のご住職が三井寺出身ということもあり、当山とはご縁の深い札所である。

 ふつうご本尊といえば、仏さま一躰であるが、長命寺の場合は、たいへん珍しいことに厨子の中に三躰の観音さまが並んでおられる。中央には千手観音、右に十一面観音、左には聖観音がまつられている。いずれも重要文化財に指定された古仏で、三尊一体の観音さまとして信仰されてきた。

 その由来は、この地を訪ねた聖徳太子が、景行天皇から五代の天皇や神功皇后に仕えた武内宿禰(たけのうちのすくね)が「寿命長遠、諸願成就」と長寿を願って文字を刻んだ柳の霊木を見出し、三尊の観音像を刻み、長命寺と命名したと伝えている。いまも健康長寿を願って八百八段あるという石段を登る参拝者で賑わいをみせている。


中世の繁栄と復興

 中世になると長命寺は、比叡山延暦寺の別院となり、近江守護佐々木氏の崇敬と庇護を受けることになる。元暦元年(一一八四)には佐々木定綱(一一四二〜一二〇五年)が父秀義の菩提を弔うために諸堂を整備している。その後、足利尊氏や義詮に仕えた佐々木六角氏頼(一三二六〜七〇年)は、霊夢を得て三井寺長吏の桂園院実慶の書写した法華経と正宗作の名刀「同炎」を奉納したと『近江輿地志略』は伝えている。

 ところが、永正十三年(一五一六)、戦乱により伽藍が焼失してしまう。現存する堂宇は室町時代から近世初期にかけて復興されたものである。なかでも重要文化財の本堂は、焼失後間もない大永四年(一五二四)の再建である。その後、慶長二年(一五九七)建立の三重塔をはじめ護摩堂、鐘楼は重要文化財に指定されている。釈迦・阿弥陀・薬師を安置する三仏堂、武内宿禰をまつる護法権現社の拝殿も県指定有形文化財で、檜皮葺や柿葺の優美な屋根が一列に建ち並ぶ伽藍は独特の景観を形成している。この時代の様子は、長命寺参詣曼荼羅にも描かれており、ことに本図下方には巡礼者を乗せた舟が何艘も描かれており、第三十番札所の竹生島から湖上を渡ってきたと考えられている。


巨岩信仰

 さて、武内健斗副住職のお出迎えを受けたべんべんは、さっそく本堂に参拝、ご朱印をいただく。境内を巡拝していると「修多羅岩」など巨岩に出会う。ことに本堂背面にある「六処権現影向石」は、巨岩が本堂へとせり出しており、火災のときにご本尊が飛び移ったと伝えている。古代以来の山岳信仰、ことに巨岩信仰の名残が濃厚に残されている。

 その後、本坊にて武内隆韶ご住職から直々にお話しをうかがい、冷たい飲物も頂戴し、猛暑のなか一息つくことができ、感謝感激のべんべんであった。




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