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発願十二万体。円空は旅とともに、今も生きる。


放浪の出家僧、円空の出生も謎である。

三井寺を旅した人―――謎の造仏聖(ひじり)、円空もまた、三井寺とは縁の深い人物であった。

昭和三十八年一月、重要文化財一切経蔵の輪蔵の上にある龕(がん:仏像をおさめる厨子)から七体の円空仏が発見された。 一切経蔵は、輪蔵に収められた経典類と共に、慶長七年三井寺再興のため、山口県の毛利輝元によって寄進されたお堂である。

円空仏が世に問われ、クローズアップされたのは、円空没後二百数十年。 円空仏は、祠(ほこら)の奥深く、あるいは厨子の裏で埃にまみれ、静かに眠っていた。 昭和三十二年、岐阜県立図書館で『円空上人彫刻展』が開催され、円空ブームに火がついた。

円空研究の第一人者、長谷川公茂氏は「円空の彫刻ほど我々の心を打つものはない。 その彫像は簡素で要点をつかみ、いつも豊かに微笑んでいる……これを造った円空とは、 いったいどんな人物であったのであろう」と、当時を振り返って書いている。 それ以来、円空研究は急速に進み、現在確認されている円空仏は四千五百体以上。 生まれ故郷の岐阜県で千体、愛知県で三千体…。 名もない山寺のお堂や、神社に祀られていた仏像が円空作と判定され、円空仏探しが盛り上がり大騒ぎとなる。 滋賀県でも九体が確認され、その内七体が三井寺に、祀られている。

一切経を収める八角形の輪蔵


様々な仏像と共に安置されている円空仏


県下で9体発見されている円空仏。その内7体は、三井寺所蔵。いずれも竜王像で、円空円熟期の作品である。写真中央の円空仏には、他の6体と異なり衣の部分に痛々しい鉈による傷あとが残る。

アートを超えた超芸術作 品は木屑から生まれた。

発願十二万体という途方もない計画を立て、それを成就したとされる円空とは、どんな人物だったのか。

寛永九年(1632)、今の岐阜県羽島市上中町に生まれたという説が一般的である。 幼い頃に、長良川の氾濫で母を亡くし、仏門に入る。 やがて修験道に心ひかれ、白山や伊吹山で修行をつむ。暇を見つけては鉈(なた)を振るい仏像を彫ったという。 岐阜県郡上郡美並村の神明神社から発見された神像三体が、一番古い作品とされる。円空、時に三十二歳であった。

造仏聖。ひじりとは「乞食坊主」という意味もある。円空は、鉈を振るいながら修験道の旅に出る。 遠くは、小浜から出航する弁才船(回船問屋から出る船)に便乗して蝦夷(北海道)陸奥(岩手、青森)へと旅した。 鰊や鮭の利権を得ようとして、松前藩は蝦夷に兵を送り、アイヌとの戦が起こる。 円空はそれらを収めようと祈り、仏像を刻んだ。現在、北海道で確認されている円空仏は四十四体である。

円空仏は荒々しく、しかも柔和。どこか哀愁を帯びて、それでいて愛嬌がある。 三井寺で発見された七体は、円空、円熟期の作で、五十五歳頃の作品と思われる。

その頃、円空は三井寺に足繁く訪れ、元禄二年(1689)時の長吏、尊栄大僧正から 血脈(けちみゃく:師から弟子に授ける法統)を受ける。 また、美濃の国池尻にある自坊、弥勒寺を三井寺の末寺として召し加えられ、戦乱の大火で消失した弥勒寺の再興に努める。

弥勒寺の歴史は古く、壬申の乱までさかのぼる。美濃の国の豪族、 身毛君広(むけつきみひろ)は大海人王子(おおあまのおうじ:後の天武天皇)の側近として活躍。 壬申の乱後、その戦死者を弔うため、大和朝廷の援助を得て建立された。 当時の弥勒寺は、東に塔、西に金堂、背後に講堂を配する奈良法起寺(ほっきじ)式の伽藍配置の壮大な寺であった。

三井寺に残る七体の円空仏はいずれも、善女竜王像である。 現在は国宝金堂の後陣に安置され、訪れる人に静かに微笑んでいる。 その中で、一番大きな竜王像(70.5cm)の両手を合された下あたりから足にかけて、 鉈で大きく打ちつけた傷跡のようなものが見える。 他の六体のような力強く、単純で整理された衣の線は無く、不規則で乱暴な鉈跡である。 円空は三井寺で血脈を受け、その答礼に仏を彫った。

木に向かい、念仏を唱え、鉈を振る。 この一番大きな竜王像は、その彫られる像の下に敷かれた木材ではなかったのか。 他の六体はこの木材の上で、彫られ、刻まれ、完成した。 乱暴な鉈跡が残ったまま、最後にこの竜王像をも彫ったのではないだろうか。 木のかけらからなる小端仏(こっぱぶつ)や、傷つき廃材としてしか価値の無い木からも仏の魂を感じ、 命を吹き込む………。円空仏が円空仏と言われる所以である。


元禄二年、長吏尊栄大僧正から、弥勒寺を末寺として認めた書状。





弥勒菩薩に抱かれて母の懐で眠る。

諸国を放浪して十二万体の仏を彫る。 円空は三十二歳から彫り始め、六十四歳で入定するまで三十二年間、毎日十体以上彫らねばならなかった。その数 を成就した記録はないが「元禄三年九月二六日当国万仏十マ仏作己」と墨書きされた今上皇帝像が、 飛騨の国上宝村の観音堂で発見された。十万体目の作である。円空五十九歳であった。

貧困や飢餓の救済、平安を祈りつつ、鉈や鑿(のみ)を振い諸国を巡った円空は故郷の弥勒寺に帰る。 自坊前の長良川畔に穴を掘らせ、節を抜いた竹を通風筒として立て、入定する。 手に藤の種を握りしめ、死に至ったという。長良川の氾濫で亡くした母と同じ場所であった。

入定塚には今も、春の終わりになると美しい藤の花が咲く。




柔らかな微笑みは今も訪れる人々の心を和ます。豊かに流れる長良川。円空が入定する池尻あたり。





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