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天才戯曲作家、近松門左衛門の謎をさぐる。


多感な青春時代 近松門左衛門は三井寺で過ごす

三井寺。正式には長等山園城寺。西国十四番目の札所でもある。 その観音堂の正面から急な石段を降りると、長等神社、さらに山裾を南へ行くと長等公園に出る。 その公園あたりに、微妙寺、尾蔵寺、近松寺(ごんしょうじ)があり、三井寺三別所と呼ばれていた。 移築されたり、遺構だけの寺もあるが、 唯一創建当時から今の場所にあるのが「高観音」の名で知られている近松寺である。 近松寺は安然和尚が平安時代に開いた寺で、近松門左衛門ゆかりの寺でもある。

時代は江戸中期。急速に商業が発達し、商人達が力を持ちだした頃、文学の井原西鶴、 俳諧の松尾芭蕉、戯曲作家の近松門左衛門など天才達が、そのパワーを開花しようとしていたとき…。

近松門左衛門(杉森信盛、通称平馬)が近松寺を訪ねたのは寛文十一年(1672)二十歳の時であった。

平馬は武門の家系の次男に生まれた。杉森家は詩歌に秀でた家系で、若くして徒然草を学び、歌も詠んだ。 寛文十一年山岡元隣編『宝蔵』に平馬が”しら雲やはななき山の恥かくし”とよんだ歌が残されている。 平馬が何処で生まれ、何処で育ったか、なぜ三井寺(近松寺)へ行ったかは定かでない。

世は泰平、武門の次男に生まれた平馬は武士としての就職先はない。 この先どう生きるべきか近松寺で平馬は考えていたのだろう。平馬は近松寺で三年の月日を過ごしている。




近松寺。高観音の名で知られている。本堂は大津市指定文化財。


重文「園城寺境内古図」五幅の内「三別所」幅(鎌倉時代)広大な境内に微妙寺、尾蔵寺、近松寺が描かれている。今は長等公園として憩いの場になっている。

己の才に目覚め 身を捨て、名を捨て京へ

東海道を京へのぼる。逢坂の関あたりに関寺、蝉丸神社がある。 関寺は諸国を行脚した一念上人が、芸能のはじまりとされる念仏踊りを奉納したところ。 蝉丸神社は能や浄瑠璃で有名な盲目の琵琶法師、蝉丸を祠る神社である。 いずれも庶民に仏教をやさしく伝える説法であった。

説法の起源は平安時代以前にさかのぼる。 枕草子に「説教師というものは顔の美しいのがよい…」と清少納言は書いている。 当時から説教師はスターであった。宮廷の女官たちに「一声・二節・三男」ともてはやされていたという。 それらは口伝で語り継がれ、家あぐいりゅう元的存在の二派があった。 安居院流は主に浄土宗、真宗の流れをくみ、三井寺流は天台宗の流れをくむ。のち三井寺流は、浄瑠璃の源となる。

三井寺、関寺、蝉丸神社……。日本の芸能史の原点というべき所が、この長等山の裾に張りつくように点在している。


関蝉丸神社


関寺の牛塔(長安寺宝塔・重文)関寺復興工事に活躍した、霊牛を供養した宝塔。

浮世にもまれて 第一人者として名をなす

教養ある武門の家系に生まれた平馬が、なぜ二本差しを捨て、浄瑠璃や歌舞伎の戯曲作家をめざしたのかその理由は定かでない。

士農工商とはっきりした身分制度が確立していた当時、商人より軽んじられた芸能の世界、 川原乞食と蔑まれていた芸能の世界に身を投じた平馬(近松門左衛門と名乗ったのは三十歳を過ぎてからである)は、 世話になった近松寺を辞し京へのぼる。

京、四条加茂川の河原には歌舞伎小屋、人形浄瑠璃小屋、見世物小屋が立ち並び、大坂の道頓堀と同様、遊興の里として賑わっていた。

平馬は歌舞伎役者、坂田藤十郎の後ろ立てを得、宇治嘉太夫座にもぐり込む。 給金などはなく、飯炊きなど下働きをしながら歌舞伎や浄瑠璃の語り口を学び、戯曲作家として成長していく。

平馬の書き下ろし処女作と言われている『世つぎ曾我』を竹本義太夫に語らせ、 新しい人形浄瑠璃の世界を開拓した。出し物は、悲劇的な結末を描いた曾我兄弟のあだ討ち物語である。 しかし平馬は、人情や恋、当時の風俗を加味して書き直した。 今で言うリメークで、四条河原は見物客で連日満員だったという。

『世つぎ曾我』の成功を得て、初めて近松門左衛門と名乗ったと言われている。 その後、『好色一代男』で作家としてすでに第一人者であった井原西鶴と出会う。 それまで西鶴は浄瑠璃の戯曲には手を出さなかった。 ある時、西鶴と近松門左衛門は浄瑠璃本で競作しようと約束した。西鶴の出し物は『暦』、 近松門左衛門は『賢女手習鑑』であった。しかし近松の圧倒的な勝利で西鶴に「二度と浄瑠璃本は書くまい」と言わしめた。

近松門左衛門は戯曲作家として名実とも第一人者になり、居を大坂に移し、 『曽根崎心中』『兼好法師物見車』『国性爺合戦』『心中天網島』などの名作を残す。


歌舞伎や浄瑠璃の中心地だった加茂川沿い。


曽根崎心中の舞台になったお初天神。境内には「曾根崎心中」の碑がある。


竹本義太夫画像

新しい文学の道を切り開いた
門左衛門の一生も謎めいている


なぜ近松門左衛門が三井寺を訪ねたのかは謎である。一説には、武門を捨 て得度するため、三井寺を訪ねたといわれている。時の長吏、道晃が「貴殿には文を佳くする才がある。 仏門に入るには若すぎる。近松寺でしばらく考えてみては」と諭す。

近松門左衛門は、近松寺で様々な書物を読み、経をあげ、朝な夕な美しく変化する琵琶湖を眺め、自分の将来を考えていたに違いない。

仏につかえるか、賤民という底辺の人間にまで成り下がっても自分の好きな道に進むか。 二十歳の青年には重い選択だったに違いない。

「何もかも捨てて仏の道に進むか、名も家柄も捨て、浄瑠璃の道を進むか」どちらがよかったのか、 その答えは大坂の谷町、法妙寺に眠る近松門左衛門しか知らない。


近松寺内部


近松寺からの眺め、大正時代初期の絵はがき






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