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忽然と消えた大津そろばんの謎を探る。


大津がそろばん発祥の地
以外に知られていない事実。


「そろばんと言えば大津、大津と言えばそろばん」と全国に名を馳せた大津そろばんは、旧東海道、逢坂の関か ら京都側に下った大谷、追分町付近を起源とする。

”これやこの行くも帰るも別れては
知るも知らぬもあうさかのせき”

と詠まれた逢坂の関は、交通の要衝として今日まで栄えてきた。 曲がりくねった細長い山道沿いには民家が立ち並び、 大津絵や走井餅などのみやげ物を商う店や、縫い針、大津そろばんを扱う商店が軒を並べていた。 旅人や牛車の往来は絶えることがなく、街道一の賑わいを呈していた。

慶長十七年(1612)この追分町の住人片岡庄兵衛は、時の長崎奉行長谷川左衛藤広に随行して長崎におもむく。 明国(中国)人から、そろばんの見本と使用方法を授かって帰郷。 庄兵衛は工夫研究を重ね、中国式そろばんの大きさ、組み方、珠の形状などを日本人に適するように改良し、 大津そろばんを完成させた。

庄兵衛は幕府より「御本丸勘定所御用調進」を命ぜられ、そろばん製造の家元となり、 そろばん業者の取締役を担う。 また、業者の製品を査定し、等級・販売価格を決定し、烙印をして販売させるという特権が認められた。 以来、三百年。明治の初めまで約三百年「大津そろばん」の名声は全国的に広められた。


五つ玉が二個。大津そろばんの特長。


逢坂山のにぎわい(近江名所図会)。


大津そろばん製作道具・市指定有形民俗文化財。(小島一馬家所蔵)


みやげものとして珍重され、
全国に広まった大津そろばん


手広く大津そろばんを扱い、氏帯刀を許された片岡庄兵衛と同様、庄兵衛を名乗っていたのが小島庄兵衛であった。 もともと小島家は、小車という紡績機に用いる木製の滑車を製造しており、その製作では第一人者であった。 そろばん作りが盛んになるとコマ屋といわれる玉作りの専門業が派生し、そのコマ屋の旗頭が小島庄兵衛であった。

国道一六一号線と国道一号線が合流する付近、 京阪電車の踏切の前(逢坂一丁目)にある十六代目の小島庄兵衛(一馬)氏宅を訪ねる。 玄関には「大津算盤家元小島庄兵衛」の表札がかかり、一歩足を踏み入れると「一里塚庄兵衛」と彫り込んだ石標が目に入る。

当主、一馬氏にお話しを伺う。小島家では先々代までそろばん業を営んでおり、 祖父が使用した製作道具類が残されていた。(現在は大津市指定文化財として、歴史博物館に保管されている)

小島家には江戸時代後期に作られた大津そろばんが数多く保存されている。 大津そろばんの特徴は、竹製のヒゴが極めて細く、その形は繊細で優美。 しかも、釘や鋲、接着剤も使用せず、何百年も狂いが生じない組み方は、 「大津指し」と呼ばれ、門外不出の秘法であった。

サラリーマン生活を終え、悠々自適の一馬氏は、大津そろばんの収集・保存、またその歴史研究に情熱を注いでおられる。

現在全国生産高の八割を占める播州そろばんは、天正年間三木城の落城に遭遇し、 たまたま難を大津に避けた住人が、大津そろばんの製法を持ち帰り、播州そろばんが興ったという逸話も残されている。


上十五代目小島庄兵衛さんとそろばん製作道具。(小島一馬氏提供)


そろばん玉の数をかぞえる道具。


小島一馬さん、昔話に花が咲く。


そろばん玉がデザインされた小島宅の古いガラス戸。


富国強兵策は物流を変え、人も心も変えた。

三百年の繁栄を誇った大津そろばんも、明治になって急速に衰退していく。 明治十二年に京都・大谷間に鉄道が敷かれ、逢坂山トンネルが開通すると、この街道筋は急速にさびれていく。 逢坂山をあえぎながら登り、茶屋で一服する旅人や、大津絵をみやげとして買い求める人が激減する。 そろばんを商う店、縫い針屋さんも同じ憂き目に会う。 また、鉄道敷設のため、そろばん業者が最も密集していた一里塚付近は、 強制的な立退きにあい壊滅的な打撃を受けることになる。

時は明治の初期、政府の産業奨励策にのり、機械化の波が押し寄せてきた。 この重要な時期に大津そろばん業者は、立退きの憂き目と、 設備の近代化の立ち遅れというダブルパンチに見舞われた。 二度、三度と転宅を強いられ機械化導入などの企業努力するゆとりさえ無かったというべきであろう。 さらにその後、国道一号線の整備、明治の末には京津電車(現在の京阪電車)の敷設工事などで、 大津そろばんは完全に消滅する。


明治11年から掘られた我が国最初の山岳トンネル。現、鉄道記念物


逢坂山をあえぎながら走る京阪電車。


多くの人々に支えられ、再び脚光を浴びる日を待つ。

西国十四番札所、三井寺観音堂の横手のなだらかな階段を登ると、琵琶湖が一望出来る高台につき当たる。 普段はあまり訪れる人もないその奥まった所に、そろばんの玉をあしらった「大津そろばん記念碑」が建っている。

毎年春、全国珠算教育連盟滋賀県支部主催の大津そろばん祭りがその碑の前で行われる。 当日は多くの関係者が集まり、そろばん供養がとり行われる。 また、そろばんの玉で出来たみこしを奉納し、ちびっ子によるそろばん腕くらべが開催される。

かつて電卓が著しく発達し、 一斉に「これからはコンピューター社会だ」とそろばんが顧みられなくなったときがあった。 しかし、数学の基礎はコンピューターでは学べない。 コンピューターでは情緒をつかさどる左脳が発達しない。 また、指先の器用さも育たない等という様な事柄から、そろばんが見直されてきたという。

見事な早さでそろばん玉を操るちびっ子を見て、 大津そろばんを生み育ててきた多くの先達は、彼岸で安堵しているに違いない。


そろばん型のモチーフがめずらしい大津そろばん記念碑。


しめやかに行われる、そろばん供養。


そろばん玉で出来たみこし。


真剣なまなざしの子供達。





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