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その(2) 豊臣秀吉

秀吉の備中大返し
 天正十(一五八二)年六月二日、本能寺の変が勃発。明智光秀の謀反により、天下統一を目前にした織田信長が横死。その時、今号の主人公羽柴(豊臣)秀吉は信長の命により備中高松城を攻めていた。高松城は三方を深い沼と、広い水堀に守られた難攻不落の城で、毛利方勇将清水宗治のもと精鋭三千の兵に、秀吉は攻めあぐね主君信長に援軍を要請中であった。その膠着状態を打破するため秀吉は兵や農民に多額の褒章をあたえ、全長四キロにおよぶ堤防を築かせ、兵糧攻めにするという空前絶後の奇策「高松城の水攻め」を敢行中の出来事であった。

 「信長討たれる」の報は翌日の六月三日、直線距離にして二百キロもある遠方に一日で秀吉側に届いている。情報伝達が徒(かち)に限られていた当時、情報の入手があまりに早かったという事で、秀吉は光秀の謀反をあらかじめ知っていたのではないかという説も根強く残る。また、毛利方の密使が間違って秀吉方の陣にその情報を伝えたとの説もある。ともあれ「信長討たれる」の報を受け、秀吉は速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君信長の仇を討つべく京に向けて全軍を取って返した。その間約十日、三万とも四万ともいわれる全軍を率い、今の岡山市北区から京都山崎までの約二百キロを踏破した。一日の行軍七十キロにも及ぶ日本史上屈指の大強行軍として知られる。が、その敏速な行軍と組織だった周到な準備などを考えると本能寺の変は秀吉の陰謀ではなかったか、など大いに謎の残る備中大返しであった。

 予想外に早い秀吉軍の出現に驚愕する明智軍。主君の横死におっとり刀で京まで帰着した秀吉軍とは山崎で対峙する。世に言う天王山の戦いである。しかし、勝負の明暗はすでについていた。戦後処理で応戦体制の整っていない明智軍と、いわば主君の仇討というモチベーションの高さが光秀軍を圧倒する。

 総崩れとなった光秀軍は近江での再起をはかるべく、居城坂本城をめざし逃亡をはかるも、伏見小栗栖の間道で秀吉側足軽侍に討ち取られる。秀吉の重臣であった竹中重門(竹中半兵衛の嫡男)の記した秀吉の一代記『豊鏡』によると、まだ光秀の死を知らない秀吉は、陣を三井寺に置き知らせを待つ。翌日、小栗栖の里人が布に包まれた首を発見し、陣に差し出したという。その場にいた秀吉自らが光秀の首であることを確認、その首は京都の粟田口にさらされた。洛中洛外より多くの見物人が集まったといわれている。 秀吉の生涯

 戦国一の出世頭と評された豊臣秀吉。その生涯は波乱と謎に満ちている。秀吉の出自に関して明確なことは分かっていない。足軽侍の子であったり、農民、さらにはその下の階層の出であったとも言われているが、天文二十三年頃から織田信長の小者として仕える。清州城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受け、大きな成果を挙げる。信長の歓心を得るために、冷えた草履をふところで温めていたという話や、墨俣の一夜城など機知に富んだ多くの逸話が残っている。

 三十歳ごろはじめて木下藤吉郎と名乗る。破竹の勢いで出世街道を駆け上がり、天正元(一五七五)年、浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡を封ぜられ、今浜の地を「長浜」と改め長浜城の城主となる。長浜統治政策として、年貢や諸役を免除したため、近在の百姓などが集まり、長浜は大いに活気を呈した。また、近江より人材発掘に励み旧浅井家臣団や、石田三成、福島正則、加藤清正など有望な若者を育成。譜代の家臣を持たない秀吉は、この頃から子飼いの家臣団育成・登用に力を入れる。

 秀吉の戦略は、主君信長とは大いに違い、備中高松城の水攻めや三木の干殺し、鳥取城の飢え殺しなど、金と時間はかかっても敵を確実に弱体化し、味方の勢力を温存するという合理的な戦術を多用、知の将といわれる所以である。

 主君信長なきあと、織田家後継者選びの清州会議が開かれる。筆頭家老の柴田勝家は信長の三男・織田信孝を推挙。対して秀吉は信長の嫡男・織田信忠の長男、三法師(当時三歳・後の織田秀信)を推す。勝家はこれに反対するが、池田恒興を始め織田家臣団は、光秀討伐による功績を高く評価し、秀吉を後継者として推挙。ここに信長なきあと秀吉天下の道筋が見えてきた。

 天正十一年、大坂本願寺の跡地に大坂城を築く。大坂城を訪れた備後国の大名、大友宗麟は、この城のあまりの豪華さに驚き「三国無双の名城である」と称えた。当時としては他に類をみない巨大な要塞であったが、のち大坂夏の陣によって焼失する。

 天正十二年、秀吉は朝廷より従三位権大納言に任命される。これにより公卿となり、翌十三年には正二位・内大臣に任官される。そして三月、紀伊に侵攻して雑賀党を各地で破り、藤堂高虎に命じて雑賀党の首領鈴木重意を謀殺させ、紀州を平定した。

 天正十四年、朝廷より豊臣の氏を賜り太政大臣に就任。ここに豊臣政権が成立するのである。四国攻め、九州征伐を経て、近畿以西を完全に平定する。また東国・奥州平定の足掛かりとして、宿敵北条氏を討つべく小田原城を攻める。その小田原城包囲中に伊達政宗ら東北の大名も秀吉に恭順の意を示し、これによって名実ともに、秀吉の天下統一事業が完成するのであった。 三井寺最大のピンチ

 文禄四(一五九五)年十一月。秀吉は突如として、三井寺に「闕所」の命を下す。秀吉五十八歳、第一次朝鮮出兵(文禄の役)のあとで、戦線が膠着状態を呈していた時でもあった。「闕所(けっしょ)」とは境内堂舎さらには所有する所領を没収する処罰のことで、三井寺の堂塔はまたたく間に解体される。現在の比叡山延暦寺の西塔・釈迦堂はこの時解体された三井寺の金堂を移築したものである。

 これだけの大事件であったにもかかわらず、秀吉がなぜ「闕所」したかについては、よく分かっていない。後世の記録には、この直前に起こった豊臣秀次事件に連座した明石元知なるものを、三井寺北院の僧侶、暁雲院が泊めたことをその原因としている(『園城寺古記』)。

 これとは別に半年ばかり前に起こった寺内の桜の木をめぐる騒動にそれを求める説もある。

 その騒動とは、伏見向島に移植予定の桜の木を僧侶が無断で伐採し、秀吉の怒りを買ったというものである(『駒井日記』)。ただ、いずれにしても秀吉はこの闕所をもって、決して三井寺の法脈を根絶しようとした訳ではなかった。それは本尊の弥勒菩薩像をはじめ、不動明王像(黄不動尊)、御骨大師、中尊大師など、三井寺の信仰の根幹に関わる尊像がすべて道澄(一五四四〜一六〇八年)のもとに遷されていることからも、うかがい知れる。

 かつて聖護院門主として三井寺の長吏職を勤めた道澄に対する秀吉の信頼はきわめてあついものがあった。その道澄により三井寺はかろうじて滅亡をまぬがれている。また、三井寺に属していた僧侶たちも道澄に預けられていて、なんの咎めもなかった。
 そして、それから三年後、秀吉の正室・北政所と道澄の尽力によって闕所の処分が解除された。それは秀吉の死の前日、慶長三(一五九八)年のことであった。早くも闕所が解けたすぐあと、失われた金堂をはじめ多くの堂塔の再建が始まった。なかでも金堂の再建は早く、秀吉の正室北政所の寄進であった。


 秀吉によって取り潰された金堂がのち、その正室北政所によって再建される。為政者なるものの為すことは実に理解に苦しむことが多い。三井寺も時の権力者の思惑によって翻弄されるが、多くの人々の篤い信仰に守られて、今も生き続けている。「不死鳥の寺」といわれる所以である。



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