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      釈迦十大弟子(六)  羅尊者(ラーフラ) 
      釈尊の実子というより、ゴウタマ・シッダルタ太子と妃であったヤソーダラーとに授かった子供です。 
      太子は我が子が産まれたとき、「障礙(しょうげ)生じたり」とこぼされたとされています。既に出家を決意されていた太子にとって、子供の存在は決意を鈍らせることになりはしないか。障礙(さまたげ)は原語でラーフラ。それが命名の謂れです。ちょっと気の毒な気がします。 
      ともあれ、太子は29歳のとき妻子を城に残し出家し、6年後仏陀となられた。さらに数年後、釈尊は生まれ故郷であるカピラ城に弟子たちを伴って伝道に来られた。今では仏陀として教団を率い、民衆を教化し、崇敬を集める釈尊ですが、ヤソーダラーとラーフラにとっては、身勝手な夫であり父親でありました。迎える二人は複雑な心境であったことでしょう。 
      釈尊はラーフラを精舎へ連れて帰り、舎利弗尊者と目連尊者に指導を委ねられました。沙弥から比丘となり、やがて阿羅漢果(悟り)を得ます。 
      しかし、周囲はどうしても尊者を釈尊の子として特別な目で見てしまいがちです。ですからなおのこと、尊者は戒律を遵守されたのです。密行第一と称される所以です。 
       阿難尊者(アーナンダ) 
      釈尊の従兄弟で出家後は持者として、生涯釈尊に仕え、また釈尊の法門を常に間近で聴聞し、つぶさに記憶したことから、多聞第一の尊者といわれています。 
      釈迦滅後の法門と戒律の統一を確立するため、大伽葉尊者の提唱により、第一結集(けつじゅう)(経典編纂会議)が王舎城・七葉窟において開催されますが、多聞第一の阿難が出席資格である阿羅漢でなかったことが、問題視されます。仏典によりますと、結集当日の朝、阿羅漢果を得て、無事会議に出席できたとあります。 
      その席で阿難は、何時、何処で、誰に対して釈尊はこのような法を説かれたと、記憶を披瀝しました。他の阿羅漢達がそれを承認することによって、今日の経典が確立したのです。 
      経典の多くが「如是我聞一時仏在……」と始まるのには、こういった背景があったのです。ですから、我々は阿難尊者の記憶力に計り知れない恩恵を受けていることになります。 
      ミャンマーのパガンに尊者の名を冠した寺院があります。均整のとれた寺院で、輝く太陽に照らし出された白く巨大な建造物は、ひときわ偉容を放っていて、存在感を誇示しているかのようでありました。 
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