円珍の過所の紹介

  円珍(814〜891年)は、智証大師と尊称される天台宗の高僧で、第5代の天台座主となり、園城寺を再興し、天台寺門宗の開祖と仰がれている。園城寺に伝来する2通の「過所」は、円珍が853年から858年まで唐(中国)に留学した際に、唐の役所から発給された通行許可書の原本で、当時の書式例を完全なかたちで伝える確実な資料として、また1150年以上にわたって円珍の偉大な業績を後世に伝承するために保存されてきた世界的にも唯一の遺産として、その価値はきわめて高い。
 昭和38年7月1日、他の関係資料とともに「智証大師関係文書典籍」として統合され国宝に指定。
 世界的大帝国を形成した唐と日本の文化交流の歴史を物語る貴重な史料であるとともに、日本をはじめ東アジア世界に大きな影響を及ぼした唐の完備された法制度や交通制度の実際を知る第一級の文化遺産といえる。

越州都督府過所
大中九年(855)三月十九日
Passport issued by the local goverment of Yuezhou, China

尚書省司門過所
大中九年(855)十一月十五日
Passport issued to Enchin from the central goverment of China

  • 越州都督府過所  1巻2通の内1通 国宝 園城寺所蔵(奈良博寄託)
     大中9年(855)3月19日   紙本墨書、縦30.9㎝×横44.0㎝
  • 尚書省司門過所  1巻2通の内1通 国宝 園城寺所蔵(奈良博寄託)
     大中9年(855)11月15日  紙本墨書、縦30.7㎝×横62.2㎝
  • 「越州都督府過所」は、大中9年(855)3月、天台宗の僧・円珍が越州(紹興)の開元寺から唐の都・長安に向かうときに越州都督府が発給したもの。
  • 「尚書省司門過所」は、同年11月に長安から天台山(浙江省)に戻るときのもので、中央官庁である尚書省が発給したもの。
    いずれも交付した役所名、出願者や従者の身分、姓名、年齢、携行品、旅行の目的や理由などが詳細に記されており、この過所を所持した一行が無事に通行できるよう発給者の署名と官印が捺されている。これらは帰国時に請来した経典類とともに持ち帰られ、一群の入唐記録(園城寺所有の国宝「智証大師関係文書典籍」)として伝世されてきたものである。

円珍の過所の文化的価値

世界的な重要性

 「過所」とは、9世紀の中国・唐代に施行された唐令に基づく唐国内の通行許可証(パスポートの類)である。園城寺に伝来する2通の「過所」は、日本の平安時代前期に最澄(伝教大師)によって開創された天台宗の総本山比叡山延暦寺の僧・円珍(智証大師)が、当時の最高水準の仏法を学び、日本に伝えるために唐(中国)に渡航、留学(「入唐求法」と称される)した際に、唐の役所から発給された通行許可書の「原本」である。
この時期の唐(中国)は、大唐帝国とも称さるように東アジア全域をはじめ西欧世界にまで広範な影響を及ぼした巨大な帝国として君臨していたが、9世末期の滅亡期に多くの記録を失ったことから、影響を受けていた東アジア各国はもとより、日本の律令にとってもその原型といわれる唐律令の記録がことごとく失われてしまった。その意味で、園城寺に伝来する2通の「過所」は、世界に残された希少な「原本」として、世界的大帝国・唐と日本との文化交渉史上すこぶる貴重な史料である。
 また、1965年に敦煌の莫高窟122号窟から「過所」の断片的な文書が発見され、1973年にはトルファン(中華人民共和国 ウイグル自治区)のアスターナ509号墳で、シルクロードを行き交ったソグド人の「過所」が発掘されているが、いずれも20世紀になって発見、発掘されたもので、この「過所」のように円珍が帰国した858年以降、1150年以上にわたって円珍の偉大な業績を後世に伝承しようと努めてきた園城寺をはじめ円珍の系譜に連なる寺院や人々によって損なわれることなく完全な形態のまま「原本」が保存、伝承されてきた歴史的事実は、世界的にも特筆されるべきものである。

時代的特徴

 当時の唐(中国)は、東アジア地域の中心的国家として繁栄し、仏教文化を中心に据えた文化も世界最高水準に達していた。この時期、日本でも多くの修行僧たちが唐に赴いているが、園城寺に伝来する「過所」のように当人に発給された唐国の公文書である「過所」の「原本」が、日本に持ち帰られて、その活動の軌跡を立証する史料として現存することは他に類例がなく、世界的巨大帝国・唐と日本の文化交流の歴史を物語る貴重な史料である。

場所的特徴

 円珍は、この「過所」を携えて無事に長安の都に到着し、空海も滞在した青龍寺の法全阿闍梨から密教などを修学した後、洛陽を経て江南の天台山に戻ることができた。過所の末尾には、その途次に通過した関所の記録が残されおり、円珍が855年5月15日に潼関を通過して長安に向かい、帰路では同年12月4日に長安を守る名高い関所・蒲関を通過した記録が唐の役人によって記入され、旅程を具体的に知ることができる。これは他国からの旅行者であっても安全に移動できたことを示しており、唐の法制度がいかに整っていたかを如実に語っている。
 唐代においてシルクロードを通じて交易が行なわれたことはよく知られているが、この活発な交易を支えていたのも唐の法制度の安定性に求められ、1973年にトルファンのアスターナから発掘された「過所」も同様の事情を表わしている。
 いかに当時の唐が世界的大帝国を形成し、東西の文化交渉の中心として機能していたかを法制度史や交通史の上から立証する重要な史料となっている。

人々の特徴

 日本における平安京遷都後の新しい仏教を求める動きの中で、天台宗の最澄(伝教大師)、真言宗の空海(弘法大師)という高僧の出現は、大和朝廷から日本の朝廷へと変貌を遂げる政治の世界にも大きな影響をもたらした。その原点は、唐代の文化的安定の下での新しい仏教教義の展開であった。最澄、空海の後を慕って多くの修行僧が中国大陸へと新世界を求めて向かったが、決して楽に入唐できるわけではなく、海を渡る際に多くの命が失われた。円珍の入唐によって請来された典籍類は、その後の天台宗だけでなく、日本の仏教界にとって貴重な資料と重要視され、円珍自身が入唐によって感得した経験や業績は、その後、天台寺門宗の教義として結実し、現在まで園城寺を中心に伝承されている。

題材・テーマの特徴

 「過所」という公文書には、特段の政治色やイデオロギーは無く、唐という巨大帝国が、広大な国土を律令という法によって治めていたことも歴史的に重要な要素のひとつである。当時、国内を旅行するにあたっては、法に基づき出発地の役所で所定の手続きに従って調査を実施し、条件を満たせば通行書である「過所」が発行され、目的地までの通過地点の役所においてもスムーズな処置が行われた。この2通の過所には、通過地点の証明も記録されており、こうした制度は、現在のパスポート(旅券)の起源のひとつとも考えられ、交通制度の歴史を考える上で格好の資料である。
 また、これらの「過所」では、年齢や年月日などの数字の記載方法が、一二三四といった数字を使わないで、壱弐参肆といった「大字」で書かれている。これは、『唐会要』巻26において、7世紀末の698年時点で、「過所」は大字で書くべし、とされていたことを伝世の実物で示していることになる。日本においても「過所」は大字で書くことになっていて、近代以後も登記簿などの数字を大字で書くことの起源は、ここに求められる。

記録形態の特徴

 日本における「過所」は、中国の律令に基づいて制度化され、公式令に「関市条」の条文を見ることができる(『令義解』)が、国内で「過所(かそ)」と呼ばれる通行証の事例は、『万葉集』に「過所なしに 関飛び越ゆる ほととぎす まねくわが子にも 止まず通はむ」(巻13-3754)と詠まれていることで、当時通用していたことがわかるが、古くは木簡によるものであった。平城京跡で出土する過所木簡は令に基づいているが、これが次第に紙に変わっていったという。
 平安時代になると入唐僧らが唐へ携えていったのは、遣唐使らの情報もあって、すべて紙の文書であった。また唐の役所が発給する過所や公験はすべて紙であった。

社会的・精神的な重要性

 円珍所縁の文書や典籍は、宗派による祖師文書を何よりも大切に伝えるという伝統的な祖師信仰に支えられて現在まで伝世されてきたものである。10世紀以降、比叡山延暦寺(山門派)と園城寺(寺門派)の間では、激しい確執が生じ、やがて武力による争いにまで発展するが、その間でも、祖師・円珍への信仰を寺門派教団の紐帯として仰ぐ全国の人々によって、円珍関係の文書群は、寺院内の僧侶はもとより円珍の系譜に連なる人々によって護られ、現在まで伝承されてきた。

参考文献

内藤虎次郎
「三井寺所蔵の唐過所に就て」 (『桑原博士還暦記念 東洋史論叢』所収、1931年、
後に『内藤湖南全集』第7巻所収、1970年、筑摩書房)
内藤虎次郎
「智証大師関係の文牘と其書法」(『園城寺の研究』所収、1931年、星野書店)
仁井田 陞
「過所及び公験」(『唐宋法律文書の研究』所収、東方文化学院、1937年)
礪波  護
「唐代の過所と公験」(『中国中世の文物』京都人文科学研究所、1993年)
荒川 正晴
「唐の州県百姓と過所の発給 唐代過所・公験文書劄記⑴」(『史観』第137冊、1997年)
佐藤  信
「過所木簡考」(『日本古代の宮都と木簡』所収、1997年 吉川弘文館) 
石田 実洋
「正倉院文書続修第二十八巻の「過所」についての基礎的考察」(『古文書研究』第51号、2000年)

円珍の事蹟

国宝 智証大師坐像(中尊大師)

  1. 高僧・円珍
     智証大師円珍(814〜891年)は、比叡山に天台宗を開いた伝教大師最澄、慈覚大師円仁とともに「天台三聖」と称さる平安初期の高僧である。また、園城寺(三井寺)を総本山とする天台寺門宗の開祖として仰がれている。
  2. 円珍、四国から比叡山へ
     円珍は、弘仁5(814)年、香川県善通寺市に生まれた。母は佐伯氏で弘法大師空海の姪に当たる。十五歳で比叡山に登り、最澄の跡を継いで初代の天台座主となった義真(778〜833年)の門弟となる。
  3. 黄不動尊の感得
     円珍は、天長10(833)年に年分度者として正式に天台宗の僧侶として得度授戒し、一紀十二年におよぶ比叡山での厳しい籠山修行に入った。その間、承和5(838)年には、日本三不動の一つとして著名な三井寺の秘仏「金色不動明王(黄不動尊)」を感得している。円珍の黄不動尊への信仰は、後世、園城寺を不動信仰の中心寺院とし、修験道(本山派修験)や庶民信仰に大きな影響を与えることになった。
  4. 唐への求法の旅
     やがて円珍は、唐に渡って新しい仏教を学びたいとの願いを抱くようになり、ときの最高権力者・藤原良房の絶大な援助を得て、ついに入唐求法の宿願を果たすことになる。仁寿3(853)年に日本を出発した円珍は、5年間にわたって天台山(浙江省)から長安(陝西省)、洛陽(河南省)など中国各地の名刹、霊山を巡礼し、天台学や最新の密教を学んだ。ことに長安の青龍寺では法全和尚から授けられた密教の大法を日本に伝え、現代に及ぶ天台宗の基盤を確立した。
  5. 園城寺を天台別院として再興
     帰国後、円珍は園城寺を天台別院として中興し、貞観元(859)年には清和天皇より仁寿殿を賜わり、唐より持ち帰った経典、仏画類を納める唐院を建立した。この中には国宝・五部心観をはじめ「智証大師請来本」として称される貴重な文献図像類が多数含まれていおり、ことに円珍が伝えた密教は、東密・台密の区別を超え、広く各宗派に浸透し、日本仏教に大きな影響を及ぼしました。
  6. 円珍、第5代天台座主に登る
     天台宗の興隆と天台密教の充実に努めた円珍は、貞観10(868)年には第5代天台座主となり、仁和3(887)年に大比叡・小比叡両神のために年分度者2人を賜り、比叡山における山王信仰の確立に先鞭をつけた。また、延暦寺根本中堂の大改修に着手し、元慶6(882)年から仁和4年(888)年にかけて9間4面孫庇付きの建物とした。この円珍が定めた様式は、現在も継承されている。
  7. 智証大師の諡号を贈られる
     円珍は、寛平3(891)年10月29日、78才で入滅されるまで、23年の長きにわたり天台宗はもとより仏法の隆盛に尽くした。その偉大な生涯について、没後10余年を経た延喜2(902)年に円珍と親交の深かった文章博士・三善清行によって『天台宗延暦寺座主円珍伝』が書かれ、延長5(927)年には醍醐天皇より「智証大師」の諡号が贈られている。現在、円珍の法脈を伝える園城寺には多数の関係史料が伝えられ、「智証大師関係文書典籍」として国宝に指定されている。

入唐求法の旅−仏法の原点を求めて−

円珍は、43歳にして入唐を果たすが、その留学の記録を多く残している。
大師の仏教教学の原点を求める求法の旅は、853年福州に上陸してから長安に赴き、さらに天台山に止宿して教学の研鑚を積み、5年に及ぶ旅で多くの経典・典籍をもたらせた。

円珍の過所の詳細

越州都督府過所

越州都督府過所
大中九年(855)三月十九日
Passport issued by the local goverment of Yuezhou, China

尚書省司門過所

尚書省司門過所
大中九年(855)十一月十五日
Passport issued to Enchin from the central goverment of China