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〔今回のテーマ〕詩人・石原吉郎(後編)


日本の戦後詩がこぞって〈喪の作業〉であったとすれば、一直線にそのど真 ん中に差し込んだ詩人、石原吉郎は現代文学の荒地に屹立する。(後編)

多田 茂治『石原吉郎「昭和」の旅』
石原 吉郎『望郷と海』
石原 吉郎『石原吉郎詩集』

5).承前
ここ数年来、地元滋賀県にお住まいの詩人大野新さんの知遇を得、度々お会いする機会を頂いている。 それでいて、不明をはじるのだが、多田茂治『石原吉郎「昭和」の旅』を読むまで、 大野さんと石原吉郎との間にのっぴきならぬ交流があったことなどまったく知らなかった。

石原吉郎は、昭和三四年十月、大野さんの参画されている滋賀県の詩誌『鬼』の同人になった。 この時期、二人の出会いを決定的にしたのは、石原が自らの意志で自分の日記「ノート」と 「肉親へあてた手紙」を大野さんのもとに送り、 それを大野さん自らがタイプを打って同人誌『ノッポとチビ』三三号(昭和四二年九月)に公表されたことである。 この当時は、まだ石原の一連の散文エッセイも発表されておらず、おおきな衝撃を与えたという。

ここまで言わなければおさまらない石原という人間への何ともやるせない暗澹たる思いにさせる 「肉親へあてた手紙」、今日ではむしろ若ささえ感じさせるほど痛切な生の声を伝える「ノート」、 いずれも彼が失ったものの大きさを憶測させ、疼くような痛みを覚えずにはいられない。 いま、ぼくは大野さんの著作『砂漠の椅子』に収められた「石原吉郎論」ほかの文章によって 二人の軌跡を辿るばかりであるが、それにしても、この手記を公表するには、かなりの膂力がいったはずである。 大野さん自身「私は自分の受苦や忍耐だけで石原吉郎を理解できるとしていた思いあがりを 無惨に砕かれていたのである。私にはこのノートが日本人に共通のノートだ」と記し、 それ故にこそ「資料的厳密さに私は憑かれていたのだ」と述懐されている。いつもは温和な容貌の大野さんが、 時折垣間見せるおいそれとは刃を抜かない剣士のような鋭さの由来を知らされる思いがした。 後に、この一連の手記は『日常への強制』に収められ、さらに『望郷と海』にも収録される。


6).
さて、『鬼』誌に発表された石原の 詩篇は、第一詩集『サンチョ・パンサ の帰郷』に収められる。そして巻頭に 据えられる「位置」は、昭和三六年八 月、『鬼』第三〇号の初出である。

 位置
しずかな肩には
声だけがならぶのでない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でもおそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である

アドルノは、かつて「アウシュビィツ以後に詩を書くことは野蛮である」と言ったが、 石原はシベリア以後に何食わぬ顔をして日常生活を送ることは欺瞞であると言いたかったのであろう。 彼は明々白々で透けて見えるにもかかわらず、 皆が日常の中に挙って隠蔽し忘れ去ろうとしている戦後の日本社会にどうしても馴染めなかった。 そうした現実にシベリヤで<おなじカマの飯を食った>仲間でさえ、正対しないことの情けなさ、 あるいは苛立ち。しかも、石原が本当に格闘していたのは、この欺瞞を欺瞞として納得ずくの上で、 いわば、その後にやってくる問題であったはずである。 しかし、そこに届く前に石原にとっては当然の前提であったことさえ世間に理解されないという鬱屈があった。 こうして石原は二重に屈折する。

「同じ釜のめしを食った」といっ た言葉が、無造作に私たちを近づけたかにみえた。 おなじ釜のめしをどのような苦痛をもって分けあったかということは、 ついに不問に付されたのである。たがいに生命をおかしあったという事実の確認を、 一挙に省略したかたちで成立したこの結びつきは、 自分自身を一方的に、無媒介に被害の側に置くことによって、かろうじて成立しえた連帯であった。
(中略)
それは、バム地帯での責任をただ「忘れる」ことでなれあって行くことでしかない。 私たちは無媒介に許しても、許されてもならないはずであった。
『望郷と海』所収「強制された日常から」

こうした石原の詩と思想をもっともシャープに言語化したのは瀬尾育生である。彼の言葉を引いておこう。

「シベリア。自己を否定すること、あるいは自己を否定されることのなかで立ち上がる「人間」の美しさ。 そこには昂然とそびえる肩があり、それに肩を接するように寄り添って敵が並ぶのである。 世界は告発に向かってたわめられるが、それは単独者の責任のなかに折り畳まれ、 自己否定の深い穴のなかに飲み込まれる。もはや声はなく、ただ呼吸の音だけが聞こえる。 だがよく耳を澄ませてみれば、そこには方向を変えた、別の告発が聴こえる。それは口にされず、 かわりにただ挨拶だけが置かれている。その禁圧された告発のまわりに言葉が呼び寄せられて彼の詩になる。 何に向かっての挨拶がそこに置かれるのか。自己否定しなかったもの、 生き延びることによって「人間」でなくなったものに対してである。だが告発は禁じられたほうがよい。 なぜなら「人間」は人間ならざるものに向かってただ挨拶できるだけだからだ」
瀬尾育生「人間の美しい収容所」
(『あたらしい手の種族』所収)

おそらく瀬尾の読みは正鵠を射ている。石原の<告発せず>の思想を理論的地平にとどまることなく、 そこからこぼれる「不透明な部分」として生身の石原の生の源を探り当てている。 この「不透明な部分」こそ、石原が散文をもってしてもなお伝わらぬものとして残されたものに他ならない。 そして瀬尾の言うようにこのくらい部分が「彼の「人間」の理念、 単独者としての自己否定の倫理のなかに凝縮されていった」のである。

しかし、限りなく自死に近い石原の死を見届けたぼくたちは、 プリーモ・レーヴィが、パウル・ツェラーンが、そしてブルーノ・ベッテルハイムが、 何故に自ら命を絶たねばならなかったのかを考えずにはいられない。

つまるところ、石原にとってシベリアの収容所での堕落の責任は、 あくまでも囚人自身にあるとしか考えられなかったのである。 ここに<告発せず>という石原の態度決定の分水嶺がある。 石原の死後、友人の内村剛介が『失語と断念』で断腸の思いを込めて書き綴ったように、 ついに石原は日常に帰還することはなかった。 詩人石原吉郎は、壊れた主体を完全な崩壊から守るべく必死の努力をして歩み続けた。 しかし、そうした石原の詩を理論で批判することほど虚しいことはない。

(園城寺執事 福家俊彦)






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