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〔今回のテーマ〕訳詩集(後編)


 「ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ、われ等の恋が流れる」。どこかで聞いた一節、遠い記憶がよみがえる。アポリネールにボードレール、彼らの詩を身近にした訳詩集の歴史を振り返る。

福永 武彦
窪田 般彌
工藤美代子
『異邦の薫り』
『一切合財みな煙』
『黄昏の詩人』

4).承前
 日本は、明治以来の翻訳大国である。ことに明治維新前後の三、四十年の間に膨大な西洋の文献を日本語に訳している。当時の日本は、文明開化の旗印のもと、横のものを縦にすることが近代化と同義であるかのような様相を呈することになる。

  これは加藤周一氏の著作で教えられた言葉であるが、「翻訳者は裏切り者」というイタリア語の箴言がある。翻訳者(トラドゥットーレ)は、裏切り者(トラディトーレ)」。どんな翻訳も原文を忠実に伝えることはできず、どうしても原著者の意を裏切ってしまうという意味である。これは言語というものが、単なる記号でなく、言葉の持つ音やリズム、その文化的背景に由来する一定のイメージ喚起力を持ったもので、これを歴史や文化の異なる言語に翻訳するのは、至難の技であるという事情を示している。従って、韻文や詩を翻訳する場合は、散文以上に「裏切り」の度合も大きくなる。

  この箴言については、長崎外国語大学の戸口民也教授が、『長崎新聞』(九一年三月二四日号)でフランス語の「croissant(クロワッサン)」という言葉を例に引いて一般向けに解説されているので紹介しておきたい。

  ぼくなどは、この「クロワッサン」という単語の意味が「三日月」であることさえ知らず、朝食に出てくるパンしか思う浮かばなかったが、なるほどあの形から名がついたのかと感心もし、おそらく商品名が「三日月パン」だったなら日本では売れなかっただろうな、と思う程度である。

  ところが、戸口先生によると本家のフランスでは、この言葉の持つイメージは、歴史的にはイスラム、特にオスマン・トルコ帝国とその旗印を連想させるのだそうである。さらに、この語は「成長・増大する」という意味の動詞の現在分詞形からきたそうで、経済「成長」などと言うときに使われる語「クロワッサンス」も関連語のひとつであるという。こうした単語一つでさえ、他の言語に翻訳する場合には、そのイメージや意味の広がりを半分も伝えることができない。「三日月」であれ「クロワッサン」であれ、どちらかの日本語に訳語を決めた時点で、もとのフランス語がもっていた広がりは、切り捨てるほかない、と述べておられる。かくも、ひとくちに翻訳といっても簡単、単純な作業でないことをこの例からも理解できるであろう。
 

5).
 窪田般彌氏の『一切合財みな煙』は、二部構成で、第一部に「訳詩に魅せられた詩人たち」として堀口大學、日夏耿之介、齋藤磯雄、西條八十などの訳詩家に関する文章が集められている。

  ここでは、ボードレールやヴィリエ・ド・リラダンを酷愛し、その名訳者、研究者として知られる齋藤磯雄(一九一二〜八五年)を取り上げてみたい。

  齋藤磯雄の出身は、山形県。維新の志士清河八郎は、彼の大伯父に当たるという。本書には、齋藤の著作『近代フランス詩集』の解説として書かれた「隠逸の高士齋藤磯雄とボードレール」が収められている。著者はここで「幼少より漢籍に親しみ、無教会派のキリスト教徒であった長兄清明の影響から聖書を愛読した齋藤磯雄は、大伯父清河八郎の知的継承者であり、和漢洋の教養を身につけたダンディ(精神的貴族主義者)」、愚劣な近代社会から「可能な限り遠く身を置いていた」独立不羈の詩人・齋藤磯雄の肖像を畏敬と哀惜の念をもって鮮やかに描き出している。

あの格調高い訳文に一度でも接した人ならば、それが単なる翻訳者や語学者の手になるものではなく、「深く世俗と違背して寂莫節を持する」詩人の創作的な労作であることを知るだろう。

  それにつけ、次の言葉などは、齋藤磯雄のみならず、本書全体に通底する著者自身の本音でもあろう。

  情報化社会の現代では、本質的な意味での詩人の存在を難しくする。詩人も作家も芸術家もすべてタレント化し、書物は商売として成り立つもののみが幅をきかせている御時世だからである。しかし、そんな醜劣卑俗な時代にも、なお「清澄の湖水と夢幻の伽藍」を愛するダンディとして生きぬいた希有な人間もいる!詩人としての齋藤磯雄の生涯がそうだった。

  この齋藤磯雄が、日夏耿之介に私淑したことは宜なるかなであるが、法政大学時代に恩師となる阿藤伯海(一八九四〜一九六五)から特別に知遇を受けたことは、貴重な情報であった。

  阿藤伯海は、名を簡、大簡、虚白堂と号した漢詩人。川端康成とは旧制一高、東大を通じての同級生。法政大学教授時代には内田百と親交を結び、その高雅な人格は、多くの教え子たちに多大な影響を与えた人物である。

  齋藤の随筆集『ピモダン館』には、この「とこしへに再び見出し得ぬ人」の遷化に際して捧げられた「先師追憶」が収められており、誄(しのびごと)の名文として記憶されてよいであろう。また、詩人の清岡卓行も旧制一高時代に伯海から薫陶を受けた一人である。彼の『詩礼伝家』は、この生涯独身を貫いた孤高の人、伯海先生が、高校時代から上田敏に私淑し、その令嬢と結婚を望んでいたことなど、その静謐な文章からは恩師への痛切な哀惜の思いが溢れ出る鎮魂の書である。

  それにしても、現在、齋藤磯雄の著作は、ほとんどが入手困難である。十年以上前に四巻本の著作集が東京創元社から出版されたが、高価なこともあり、こちらも在庫僅少であろう。

  ぼくは、古書店で偶然見出した新潮社の一時間文庫として一九五五年に発刊された『フランス詩話』、『ボオドレエル研究』と『ピモダン館』の復刻本を愛蔵しているが、ようやく一九九五年に講談社文芸文庫から復刻された『近代フランス詩集』も同文庫の佐藤春夫『車塵集・ほるとがる文』共々、現在では入手困難となっている。こうした出版事情をみていると、情けないことに窪田氏の激白を支持せざるを得ないのかも知れないが、ここでは、齋藤磯雄の名言を引いておきたい。これは阿藤伯海の訓えであるという。

  詩ヲ暗ンジテノチ論ズルハ善シ、
    論ゼズ之ヲ楽シムハ更ニ善シ<

6).
 昭和初期から現代まで、もっとも影響を与えた訳詩集を一冊あげるとすれば、やはり堀口大學(一八九二〜一九八一年)の『月下の一群』ということになるであろう。工藤美代子氏『黄昏の詩人〜堀口大學とその父のこと〜』は、堀口大學の生涯を、父久萬一にまで遡って掘り起こした親子二代にわたる評伝となっている。

  なかでも大學が、第一次世界大戦下のマドリッドで出会った日本でも人気のある画家マリー・ローランサン(一八八三〜一九五六年)との交流の思い出を描いた一章は印象的である。

  さて、堀口家の故郷は新潟県長岡市。大學の父、堀口九萬一は、越後長岡藩の足軽の子として生まれた。ときすでに幕末、長岡藩では河井継之助(一八二七〜六八年)が藩政改革に手腕を振るっていたが、戊辰戦争に際し長岡城奪還戦で命を落としてしまう。このとき久萬一の父親も戦死する。久萬一、三歳のときである。その後、彼は年若い母のもとで猛勉強に励み、日本で最初の外交官試験に合格、外交官として世界各国を遍歴することになる。

  一方、大學は、明治二十五(一八九二)年、東京で生まれている。同年生まれの佐藤春夫は生涯の親友だった。慶応義塾大学予科へ入学した十七歳のとき、与謝野鉄幹、晶子夫妻の新詩社に入り、詩歌を発表し始める。十九歳のとき、父の任地メキシコに赴くため大学を中退、その後も父についてヨーロッパに渡り、フランス語を学び、フランス象徴詩など西洋の文学に大きな影響を受ける。そして、大正十四(一九二五)年、三十三歳にして発表したのが、『月下の一群』であった。

  父の影響のもと、大學は、当時の日本人としては格段に外国の文化に直に触れ、その教養を血肉として身につけることができた。彼の人柄は、その経歴から伺えるように当時の日本人にあっては飛び抜けていたであろう。次の与謝野夫妻にまつわるエピソードによっても彼の性格を知ることができる。

  いくら妻に優れた才能が会っても、夫の面子を立てるのが当然だった。しかし、大學はそうしたことをすべて承知していながら、やはり晶子を「先生」と呼ばないではいられなかった。それは大學が持って生まれた資質だったと私は考える。たとえ女性であっても師は師であり、「先生」と呼んではばからないのは、つまらない常識の型にはまらない大學の自由さだった。

  著者の工藤美代子氏の経歴も大學と似たものがある。彼女の父は、ベースボールマガジン社や恒文社を創設した池田恒雄氏で、やはりご出身は新潟県、現在の魚沼市である。彼女自身も高校卒業後はチェコスロバキアに留学、カナダの大学を卒業されている。大學ならずとも、こうした人からみれば、誰もが国際化、国際化と叫ぶ現代の日本の姿は、どのようにうつっているのだろう。祖父母、父母が生まれ育った故郷を離れ、根無し草のように大都会に生きる現代人にとって、自らのよって来る故郷の風景、そして自分自身も生きられた時間に連なる歴史的存在であることを再認識することは、よほどかけがえのない作業ではなかろうか。

  ここに、大學の生涯を描いた本書が、彼の祖父や父の時代まで遡らざるを得なかった理由もあろうし、また国際化を考える上でも、外国の文学作品を日本語に訳してきた先人たちの労多き仕事を振り返り、その芸術を味わうことにも幾ばくかの意義はあるであろう。
(園城寺執事 福家俊彦)




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