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大阪府の新羅神社(2)

一.摂津地方の新羅神社
 摂津地方は、北摂津山地から住吉区までである。住吉区の南端を大和川が流れ、摂津と河内を分けている。とりあえず、大阪府を摂津地方と河内地方の二つの地域で分類した。

  この摂津地方は古代から上町台地しか台地状の地がなく、台地の東方には、河内潟が入り込んでおり、淀川も猪名川や安威川、大川(旧淀川)木津川などを合流し浪速津を形成していた。大和川も大きな砂洲を造っており、そこには、住吉津があり、住吉の神を祭ったという。また、八十島では古代の天皇が即位の際に、八十島祭りといわれる祭儀を修したといわれている。

  十一世紀のものであるが、難波を描いた図面として、「浪華古図」「八浪華図」がある。
平野区にあるJR百済駅
  それを見ると、淀川の川口部分に大きな島状の砂洲がある。淀川と大川(古淀川)に挟まれた砂洲は北渡辺村、陸に繋がっているのが、南渡辺村であり、この二つの島は大川に架かる渡辺橋で南北に繋がっている。西側は大江岸がある。更に、中之島もある。渡辺橋は現在の渡辺橋より東側で、天満橋の近くである。渡辺は古代難波における唯一の河港で「国府の渡し」と称された。

北渡辺村は、現在の天満の地であり、この地域は旧新羅江で、新羅江には東大寺の所領、新羅江庄があったことが記録に見える。南渡辺村は現在の中央区の石町(大阪城の近く)あたりであり、摂津国の国府が置かれ政治や交通の要衝であった。北渡辺村に新羅江という地名が着けられたことについては、段麟『大阪における朝鮮文化』によれば、「新羅王子天日槍が妻を追って難波まで来たが、渡しの神(恐らく土地の豪族の神格化)に遮られて上陸出来なかった為に、山城川(淀川)を遡って近江国へ行ったことになっているが、この時彼らの分族がこの辺りに定着した為に新羅江という地名がつけられたのではなかっただろうか。 そして、彼らが祖神を祭る為に祭祀を行った祠が、後世、土地の人々により白木神社と呼ばれたのであろう」

  この南北の渡辺村は豊臣秀吉が大阪城を築城した天正十一年(一五八三)他所へ移された。南渡辺村は現在の中央区の石町(大阪城の近く)辺りであり、摂津の国の国府が置かれ、政治、経済の中心であったが、坐摩神社も船場の西に移された。そこも、渡辺村という。南北の渡辺の隣には南北の中島が並んでいた。北中島は久太良洲であり、久太良里、船場、久宝寺、牛頭天王、難波寺などの地名が見える。現在、久太郎町、久宝寺町、船場、難波などの地名が残っている。坐摩神社は久太郎町にある。久太良洲(百済洲)には、百済王一族をはじめ百済系渡来人が住んでいた。更に下難波神社は牛頭天王社であり、素盞鳴命を祭っていた。南にある南中島は新羅洲といわれ、志羅池、新羅洲崎などの地名が見られる。『織田信長の石山本願寺攻撃図』には、シンラ池、新羅橋の地名が書かれている。また『摂津名所図絵』には、「白洲崎、今の西堀より西の方の惣名なるべし、実はなり。むかし新羅船ここに着岸して貢物を献りし所という。後世又訛りて町、白髪橋という。新羅のなるべし」とある。地名で「新羅」の当て字として「志羅城」、「白木」、「白髪」などの文字が使われた例は多い。(『大阪府志』橋本繁造『渡来人のあしあと』段麟『大阪における朝鮮文化』ほか)これらの地名はそれぞれ居住した人々の名称から付いたものと考えられる。

  西堀の西を木津川が流れており、この川に沿って白木神社や住吉神社がある。

出羽弘明(東京リース株式会社・顧問)






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