三井寺 連載
ホーム サイトマップ

新羅神社考
三井寺について

ピックアップ

名宝の紹介

教義の紹介

花ごよみ

連載
浪漫紀行・三井寺
いのりの原景
新羅神社考
21世紀の図書館


法要行事

拝観案内

販売

お知らせ

お問い合せ


大阪府の新羅神社(4)

三.住吉区の住吉大社と新羅
 住吉区は摂津国の南端である。古代の難波は東は上町台地東を北流する平野川と玉造江付近の低湿地帯、西は大阪湾岸、南は阿倍野から杭全(くまた)付近までの地域であり、住吉は難波の南に位置し、旧攝津国・住吉郡域である。十一世紀の『浪華古図』には、淀川河口部から拡がる茅渟海(ちぬのうみ)(大阪湾)に存在する八十島(やそしま)の南に住吉津(墨江之津(すみのえのつ))と住吉大社が描かれている。難波津は難波堀江の開削により出来た港であり住吉津の方が歴史は古い。古墳時代前後頃の難波には淀川と大川(天満川)が形成した数多くの砂洲があった。この難波の八十島で行われた八十島祭(やそしままつり)が神話化され、応神天皇とこの祭りが神話に取り込まれ、八十島祭の儀式が天皇の即位の儀式に付着させる事になったといわれている。応神天皇は母親が天日槍(あめのひほこ)の子孫であり、敦賀の気比(けひ)大神との繋がりも強く、新羅系の天皇である。住吉大社は木津川にある白木神社から電車で十五分くらい南にある。住ノ江駅が近く、大和川が流れている。住吉の港は堺の港と一体である。

住吉大社住吉大社は難波の海の守護神であり、海人族が祀った神であり、禊祓神・海上守護(航海安全や漁民)また軍神・和歌・農業の神として崇拝された式内社「住吉坐(すみよしいます)神社四坐」である。鳥居をくぐると左右に絵馬殿。参道に架かる朱塗りの反橋は慶長年間に淀君が奉納架替したものである。山門をくぐると社殿があり、正面に第三本宮、その背後に第二本宮、その後に第一本宮というふうに一列に並んでいる。第三本宮の右側に第四本宮が鎮座している。全て同じ形式の建物である。何れも切妻造りの屋根に千鳥破風の庇をつけた拝殿と住吉造の本殿である。当社の祭神は、表筒男命(うわつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、底筒男命と神功皇后(じんぐうこうごう)(息長足(おきながたらし)姫命)である。由緒については「住吉大神が神功皇后の三韓出兵の際に、海路の案内に活躍し、凱旋の後、神功皇后が津守氏の祖の居住地の大津渟中倉の長峡にこの神を祀り、皇后が、われは御大神と共に相住まん、といわれたために住吉の神とともにこの地に鎮祭された」といわれている(『住吉大社神代記』ほか)。しかし、当社のいわれについては、諸説ある。『風土記』摂津国逸文によれば、「住吉の神がこの地を真住み吉し、住吉の国といい社地とした」という。

 当社は新羅洲の対岸に位置しており、明治の初期まで「新羅寺」という「神宮寺」があったことから、当地には新羅系の渡来人集落があり、その人々が祀ったものであろう。江戸時代の当社の境内図をみると、第一宮と摂社大海神社との間に新羅寺の境内があり、大伽藍であった様子がわかる。『住吉名勝図絵』『摂津名所図会』などによれば、「当寺は天台宗に属し本尊薬師如来を祭る本堂を中心に法華三昧堂、常行三昧堂、大日堂、経堂、五大力宝蔵、東西の二層塔、求聞持堂、食堂、東西の僧坊…などがあり巨刹であった。更に、勘文曰くとして、孝謙天皇天平宝字二年(七五八)霊告によって経始す。…また曰くとして本尊は三韓より伝来の新羅寺の仏像である。石櫃に入れ内殿の土中に納める秘仏で蓋を開けたことがない。新羅寺の仏像故に新羅寺と号した」と記述されている。現在は社務所の裏側の塀と林の間の道の一角に石積の土台の跡があるのみである。一メートルくらいの高さの石塊が残っており「住吉神宮寺跡」と書かれた石柱が立っている。当社の禰宜に尋ねてみたが、新羅寺を壊した後にどうなったのかは判らないとのことであった。

 新羅寺跡から少し北東の奥に摂社「大海神社(たいかいじんじゃ)」がある。この社殿は住吉大社と全く同じ様式で、住吉造りの本殿を持ち、西向きに建てられている。祭神は、豊玉彦(とよたまひこ)命・豊玉姫命の海神の親子である。豊玉姫命は彦火火出見(ひこほほでみの)命(神武の祖父)の妃である。対馬の「鶏知(けち)」にある白江山の麓には式内名神大社、住吉神社がある。祭神は鵜芽葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)・豊玉姫・玉依(たまより)姫である。この神社は境内に和多都美(わたつみ)神社(海神)を祀っている。祭神は鵜芽葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)・豊玉姫・玉依(たまより)姫である神社の境内に海の神の社を配置しているのは大阪の住吉神社と同じである。
 対馬の白江は新羅江であり、白江川(新羅江川)が流れており新羅邑であったところである。そして、この住吉神社の建つ浦は謡曲「はや住みの江に着きにけり」の住之江であるといわれている。
 和多都美は綿津見神・筒男命である。『記紀』によれば、綿津見神は安曇族の祖、筒之男は住吉の神であると記している。神社の祭神は『記紀』神話によるところが大きく影響しているが元々は対馬の和多都美神社のように、豊玉姫やその子神・磯良(いそら)のような神であったと思われる。綿津見神については、綿津見の綿は朝鮮語の「海」で「パタ」からきたもので、秦氏との係わりを述べる説や八幡神の幡に通じるとする説、また、「筒」については、星を表す(夕星(ゆうづつ)からきた)、帆柱の下の船霊を入れる所、港である、蛇を表す入墨をした海人という説など多くの説がある。
 一方で住吉神は、漁撈の神ではなく古代の大和王権によって人為的に創られた神であり、畿内から朝鮮への航路の拠点となる地域に配置されているのも大和王権の西進と朝鮮半島への航海の守護の為であるという説もある。住吉の神は「津ノ神」であり、「津ノ男と津の比売」の夫婦神であったものを津ノ男を三神に分化させ、住吉三柱大神とした、という説と合わせ考察の価値はあると思われる。
大阪の住吉大社の江戸時代の境内図を見ると境内を何本かの川が南北、東西に流れている。東西の二本の川は第一本宮の背後から新羅寺の方へ流れ住吉の津に注ぐ。住江大神(すみのえのおおかみ)・墨江三前(すみのえのみまえ)の大神といわれる由縁であり、難波の海の海人たちの守護神であった。また、住吉大社には第一本宮と摂社若宮八幡社との間に杉の大木があり、「高天原」といわれている。
 当社の特殊神事に「卯之葉(うのは)神事」といわれるものがある。これは住吉神の鎮座が神功皇后の摂政十一年辛卯(かのとう)年の卯月の上の卯の日であると伝えられている為、古くから四月上旬の卯の日(現在は五月)に石舞台で舞楽が奉納されている。卯は東方を指す。彦火火出見命は日の御子であり、神功皇后は父方の祖は日子坐命、母方の祖は天日槍、応神天皇も日の御子であり、何れも太陽信仰との結びつきを示すものである。なお境内には「卯の花苑」や「卯の日灯篭」などがある。平野区にある赤留比売(あかるひめ)命神社は古くは住吉大社となっていたといわれている。

出羽弘明(東京リース株式会社・顧問)






「新羅神社考」に戻る
「連載」に戻る

Copyright (C) 2002 Miidera (Onjoji). All Rights Reserved.