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京都市の新羅神社(12)

京都市の新羅神社(その三)  

当社の社殿は山の中にあるので外からは見えない。白川に架かる白石の橋を渡り、少し歩くとこれも白石で出来た明神鳥居があり、緑色の地に金色で北白川天神宮の文字が書かれている。鳥居が既に森の木々に覆われており境内は全て山の森の中である。石段を中腹まで登る。左手に三社宮がある。日吉、春日、八幡である。中央に神楽殿のような拝殿があり、その背後に唐破風の門と玉垣に囲まれて、本殿がある。境内社が多く、本殿の右に賀茂社、更に丘陵地の右手に細い参道があり、稲荷社、渝社(石を祀る)、などがある。宮司の話によれば、北の比叡山から丁度太陽が昇るので太陽崇拝の地(神社は線古山)にあるという。山内に狐の墓があり、狐を祀っているとのこと。此れは、狐は生命力があるので(子を沢山産む)生の象徴として祀っているとのこと。境内に説明の板が何箇所かある。同じ様な内容であるが、「少彦名命は大国主命と力を合わせて、日本の国土経営に尽くした医薬と禁厭の祖神で、酒造り、安産の神である。古く白川国・久保田の森に在って北白川一帯の産土神で天使大明神として鎮座されていた。……」とある。

9 如意ケ嶽の新羅明神

東山連峰の主峰、浄土寺・鹿ケ谷の東に聳えるこの峰は背後には長等山(大津市)を経て近江の三井寺や琵琶湖に通じ、平安時代にはその山中に天台寺門宗の如意寺の堂宇が存在した。この寺の東門は浄土寺にあり、園城寺(三井寺)の東門を兼ねたといわれている。『所社根元記』には、「平安ノ帝都ハ天上ノ名跡ヲ顕セル国ナリ。東ニ当テ如意嶽アリ。日神岩戸ヲ出サセ給ヒテ、其御光顕レ出タリケルヲ、八百万神悦ヒテ、皆意ノ如クナルト宣シヨリ、如意山ト名付」と命名の由来を述べている。『寺門伝記補禄』には如意寺鎮守として、新羅社があったことが記されているが、数度の火災により焼失して神社聖跡の縁起は詳らかならず、としている。「如意寺図説」によれば、如意山は長等山最高の処なり、如意宝山と云われた。この峰は正しく王城の東門に当たれり、……楼門の正面に本堂、東に向って立つ、本尊は千手観音、本堂の北の方に食堂、南向、食堂の東に新羅社、西向、社の南楼門の差し入り北の方に一盤石あり、是れ住吉明神の礼拝石なり、……とある。現在はその跡もない。この如意嶽の中ほどに大文字山がある。


三重県の新羅神社(1)

1 三重県と神社

  三重県の成り立ち

三重県は天照大神が皇大宮神として祀られている伊勢神宮が存在していることから、いわゆる「記紀」神話にある天孫族系の国と思われがちであるが皇大神宮の成立は天武天皇以降のことであり、古くは渡来系の神や地主神が存在していた地域で天照大神の祭祀とのかかわりはなかった。現存の神社からみると新羅系の氏族が多く居住していたようである。
  ところで、三重県は伊勢湾に面する「伊勢」「志摩」の二国と滋賀県の信楽(しがらき)(聖武天皇の七四二年〜七四五年に紫香楽(しがらき)宮があった)に隣接する「伊賀の国」、熊野灘に面した「旧紀伊国の牟婁(むろ)郡の一部」を含む地域で成り立っており、東南部は海に北西部の背後は山岳地帯に囲まれている。「伊賀国」は、かつては琵琶湖と連なっていたともいわれているが天武天皇九年(六八〇)伊勢四郡を割いて立国されたという。「伊賀国風土記」に、はじめ加羅具似(からくに)といったと記載がある。これは加羅国、あるいは韓国の意であろう。伊賀地方は山々に囲まれて盆地が多いが滋賀、京都、奈良との往来が容易な場所でもある。志摩地方は「御食(みけ)つ国・志摩の海人(あまびと)」といわれた如く、朝廷に海産物を貢進すると共に、伊勢神宮の神饌として魚介類を貢進したことが平城京出土の木簡などから判明している。伊勢の度会郡二見町の二見浦は伊勢神宮の参拝者が垢離をとりに訪れた清い渚として知られているが、夫婦岩は朝日の遥拝で有名で沖合にある興玉石(猿田彦命の霊跡)の岩門とされている。

 三重県の地主神

現在の伊勢国を有名にしているのは伊勢神宮の存在であるが、それ以前に当地方を治めていたのは伊勢津彦命という神であり「伊勢国風土記」や「紀」によれば、天日別命(あめのひわけのみこと)(度会氏の祖・伊勢国造・天日鷲命)が神武天皇の勅を受けて伊勢津彦命を征服したのち国神の名を取り伊勢国と号けたとされている。同じ風土記に大部日臣命(おおともひおみのみこと)(大伴氏の祖)に対して「生駒(奈良県・生駒山地方)の長髄彦(ながすねひこ)(櫛玉饒速日(くしだまにぎはやひ)命の義兄・物部氏の祖)を早く征伐せよ」と命じている記載がある。風土記は「伊勢というは、伊賀の穴志(あなし)(柘植(つげ)町の式内社穴石神社)の社に坐す神、出雲の神(大国主命)の子、出雲建子命(いずもたけこのみこと)、又の名は伊勢都彦命、又の名は櫛玉命なり。此の神、昔、石もて城(とりで・柵)を造り、こゝに坐したのでこの神の名をとった」とも記載している。そして伊勢津彦の神は近くの信濃の国に住んでいたと記載がある。これらの記載をみると伊勢国の神は大和や出雲、信濃の神と同族であったことやこれらの事件が同じ頃の出来事であったことが推測される。ちなみに信濃の神は諏訪神社の祭神・建御名方神(たけみなかたのかみ)であり、大国主命の子神である。新羅系が多かったということであろう。「記紀」などに明確な記載はないが、伊勢地方は御食つ国といわれていたので「御食つ神」(豊受大神)や海の神である龍神、山の神、猿田彦神などが祀られており天照なる神は後代に造られた神である(皇大神宮の成立は文武天皇二年(六九八)のことである。)。

 古代遺跡

名張市の下川原遺跡では「柄鏡形住居」と呼ばれる縄文時代後期(約三千五百年前)の堅穴式住居跡が発掘されている(平成八年五月)が、同種の住居跡は関東に多く、西日本では初の発見。当時、既に東西の交流があったことを示す遺跡として注目されている。伊勢地方には古代の居住跡がいくつか発見されているが、特に、三重県飯南町の粥見(かゆみ)井尻遺跡からは、粘土で乳房や頭部をはっきり表現した約一万一千年〜一万二千年前の縄文時代初期の土偶が平成八年十月に発掘されている。更に、安濃町の大城遺跡から弥生時代後期(二世紀中頃)の高坏の一部の土器片に刻まれた漢字とみられる日本最古の文字が見つかっている(平成十年一月)。同町の教育委員会では「死んだ人の霊や神を奉るという意味で刻み祭祀に使ったのでは」と推測している。
  また、平成九年八月には嬉野町の貝蔵遺跡から出土の土器には墨で人の顔や文様、記号を記した古墳時代初期(三世紀前半)の土器が、同町の片部遺跡から出土の古墳時代前期(四世紀前半)の土器には墨で「田」の文字が墨書きされたものが発掘(平成十一年十二月)されている。
  平成九年九月十一日付の読売新聞で水野正好奈良大学長(考古学)は「日本列島付近の筆の実物は紀元前一世紀のものが狗邪韓国で発見されている。今回の墨書は狗邪韓国のような朝鮮半島や中国との交易の盛んな地域からの渡来人によるものと想定。当時すでに伊勢の津が日本海の敦賀や三国、難波津などと共に主要な物資の交易港であった」と解説している。風土記の記述からみると邪馬台国の時代に既に大和には物部氏がいたことが推測される。この地方では更に、平成十二年四月には松阪市で五世紀初頭の前方後円墳・宝塚一号墳から各種の付属品を伴った国内最大の船形埴輪(長さ一四〇m、台座を含めた高さ九〇p)が出土している。船上には王権を象徴する大刀、杖、王の日よけに使う蓋(きぬがさ)などの権威を象徴する飾り物と共に、の道具が飾り立てられており、被葬者の魂をあの世へ送る葬送船と見られているが、大和川や太平洋に沿った水運を掌握していた王がいたことを物語っている。この墳墓では祭祀場とみられる「造り出し」と墳墓をつなぐ土橋が全国で初めて出土している。

(東京リース株式会社・顧問)





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