三井寺 連載
ホーム サイトマップ

新羅神社考
三井寺について

ピックアップ

名宝の紹介

教義の紹介

花ごよみ

連載
浪漫紀行・三井寺
いのりの原景
新羅神社考
21世紀の図書館


法要行事

拝観案内

販売

お知らせ

お問い合せ


三重県の新羅神社(3)


忍山神社と新羅の神

忍山神社の宮司の桜井弘之さんにお会いしてお話をお聞きした。御子息が私と同じ名前であるということで、懐かしそうな顔をされて丁寧に説明してくださった。桜井さんは当社以外にも須佐之男神社、和田神社など四社の宮司を兼務している。当神社は猿田彦命、天照大神を祭るほかにも三十三社(三十一神)を合祀している。当神社の拝殿には牛頭天皇(ごずてんのう)と弟橘媛(おとたちばなひめ)の額があり、毎年十月にある傘鉾(かさほこ)の祭(亀山市無形文化財)は、須佐之男命の荒魂をなぐさめるために古くから行われた神事の一つであるが、その由来は明確でないという。この祭は疫病を追い払い、健康を願うものである。猿田彦の像は平安時代の木像であるという。更に、この神社は元伊勢神社として倭比売が皇大神宮の宮地を求めて遍歴した十六社(奈良、宇陀、近江、岐阜、美濃、伊賀、伊勢等にある神社)で、神無山の会を設けているという。大和の三輪(美和の御諸の宮)、近江(坂田宮)、美濃(天神神社)、伊賀の穴穂の宮(神戸神社)など。ここで興味を引かれるのは猿田彦命であるが、この神は天孫邇々芸命が筑紫の日向の峯に降臨する時に先導役をする為、天の八街(道の分かれるところ)まで迎えに出た神であり、案内した後は、伊勢の狭長田の五十鈴の川上へ帰還したという。「紀」の神代の条の記述であるがこれを一応肯定すると、天照大神の孫邇々芸命を葦原の瑞穂の国で出迎えた猿田彦命なる神は、天孫族より以前に日本列島に渡来していた天孫族の同族であったことになる。いわゆる国津神と呼ばれる神の一人であった。 更に、忍山神社の社記によれば、神社は現在地の北東にある押田山(愛宕山)の麓にあり、この山は神山とも呼ばれて、亀山の語源にもなっているが、社記に文明年中(一四七〇年代)の兵火で白木山(新羅山)に逃れたという記述がある。白木山の麓に白木神社が存在する例は亀山市の白木町でも見られると共に、他県(例えば熊本県)でも見られる。加えて、神社の創建が饒速日命の孫であれば出雲に渡来してきた氏族の直系ということになり、白木、新羅とのつながりが一層強くなる。従って、忍山神社の白鬚大明神と布気神社の素盞鳴尊は新羅の神、新羅(白木)神であったと言えるであろう。

忍山神社正面もともとあった白鬚神社の白鬚とは新羅ということであり、中島利一郎「日本地名学研究」によると、古い朝鮮語の「クナル・クナラ(白鬚)」からきたものだともいう。クナル・クナラとは「大国」または貴い国という意味の貴国でもある。新羅にしても、その元は「新しい国」ということであったから、新羅系渡来人の住み着いたところとみられる中心地が新羅=白鬚だったとしても不思議はない(金達寿)。日本では新羅系のものが定住地に集団の神を奉祭していたのが、新羅明神や白鬚明神へと変わった(和歌森太郎)という。

② 布気神社(布気皇館太神社)と新羅

現在の布気神社は上古、布気林の地にあり、布気村字目原にあった社である。「垂仁天皇十八年に勧請された式内社・鈴鹿郡布気神社は是の神社である。昔、野村の旧字に布気林という地があり、そこに奉斎してあったことから布気神社と称した。「ふけ」という語源の一つに地面の凹地を指すことから、「ふけ田」は沼田のことで、一帯の湿地帯を布気地方といったという。その後、文明の兵乱により、社殿悉く焼失したために皇館の森へ奉遷したと伝えられている」(皇館大神社由緒書・三重県神社誌)。現在は布気皇館大神社と称し、亀山市布気町にある。皇館と称するのは垂仁天皇の時代に天照大御神が忍山に還幸の時に大比古命が神田、神戸を献じたことに由来する地名であり、野尻・落針、太岡寺、山下など七ケ村を神戸郷といい、皇館太神社を総社と仰いだことによる。また、当神社は雄略天皇の時、丹波の豊受大神宮を伊勢山田(伊勢神宮)に御迂幸の途次、この神庤(しんじ)に御一泊になったので、爾来特別の霊域として重視されるようになったといわれている。とすれば、往古は現在の忍山神社の地にあったとしても不思議ではない。神社の拝殿は平妻造に春日造の屋根がついたような形の木造瓦屋根で、社記によれば木殿は伊勢神宮と同じ唯一神明造。また、布気神社御鎮座本記に曰く、俗に皇館大神宮と称す。布気という言葉は止由気の転語で祭神豊受大神なり。この社は古昔、野村忍山の辺にありしが衰幣したため、館殿の森に遷し、其跡は田園となる。故に今は布気林の名だけが残ったという。

当社の祭神は、四十八神を祀っているが、皇館太神社の祭神は天照大御神とあり、この神は豊受大神伊吹戸主神と説明されている。更に布気村社・能志理社 祭神・大名牟遅神(大国主神・国土経営の祖神)・須佐之男命(智仁勇兼備の神・天照大御神の弟神)、その他、厳島社(宇迦御魂神・農工商の守護神)、愛宕社(火之迦具土神)、山神社(大山津見神)の四社が明治四〇年に合祀、以降、八幡社(品陀和気命)、広峯神社(建速須佐之男命)津島社(須佐之男命)など四十三社を合祀してある。七ケ村の惣社として崇拝された当神社の境内に富士山大権現の石柱と鳥居がある。布気神社の宮司は多田利雄氏。夫人のまさ子さんがおられ説明をしてくれた。亀山市から関町にかけては白木町、白木一色などの町の名前が残っており、新羅系の渡来の人々が住んでいた場所であると思われる。

3 亀山市白木町にある白川(新羅)神社

 白木にある白木山と白木神社

忍山神社のある野村町から旧東海道を越えて北へ車で走ること七、八分。白木―西町道路に出る。西町と西方の白木町を結ぶ道路である。野村町からみて、北西の方角であるが、鈴鹿の山裾に向かう緩い坂道である。鈴鹿山脈の裾にある明星ケ岳(標高約五五〇m)の麓に白木町と白木一色の集落がある。白木町は上白木と下白木の集落に分かれている。亀山市は鈴鹿川とその支流による扇状地上にあり、しかも河岸段丘と火山灰層から成り立っているが六段の礫層の内、最高位に位置する場所に白川神社がある。上白木と下白木の辺りは白木断層が走っている。先に見た野村の辺りは野村火山灰層の上に造られた河岸段丘であるが、東の愛宕山には礫層が見られないことから、鈴鹿川がここを流れていた時代には愛宕山は島のように突き出ていたと思われる(亀山市自然に親しむ会『竜川〜白木ウオッチング』)。西町から明星ケ岳の方角(北西)への道を二〇分ほど車で行く。道はゴルフコースの中を通り松山というバス停を過ぎる。左手に大きな池が見える。池の外側を回り左折すると茶畑の中の道にはいり、しばらく進むと白川小学校に突き当たる。小学校は白木山の入口にあり、学校の前の道を通り山の中へ向かう。巾が六〜七mほどの山道が続いており、山道の両側が大きな礫層の崖になっており、石粒がつまっているのが判る。茶畑の辺りは白木断層で盛り上がった地形になっている。山の中程に「白川神社参道」と書かれた石柱(平成十二年建立)が立っており、参道沿いに車で登る。しばらくすると広い場所に出る。そこからは石段が三〇mくらい続いている。石段の下には白川神社の石碑が立っている。山の上に到着する。神社の建っている台地からは亀山の街が遠望できる。

 白木(新羅)神社とその由緒

神社の境内は広い。石灯籠が数基あり、石の大きな鳥居も二の鳥居まである。一の鳥居は明神鳥居、二の鳥居は神明鳥居で、社殿は平入り(皇大神宮と同じ)で庇を持つ。瓦屋根、木造のりっぱな社殿である。境内には龍を祀る小さな祠もある。神社の案内板(平成七年一月一日)によると、神紋 右三巴、鎮座地亀山市白木二八三五

祭神  天照大御神、天宇受売命(天鈿女・あめのうずめ)、伊邪那美命、大山津見命、市寸嶋比売命、火之迦具土命、大穴牟遅神、品陀和気命、須佐之男命、木之花佐久屋比売命、瀬織津比売命、宇迦之御魂神の十二柱。

上白木の白木山からくだると下白木のバス停に出る。白川郵便局の前に白木公民館がある。少し手前に旧東海道の標識があり、更に「白川小学校は九〇〇m登る」と書かれた木柱の前の道路に古い石柱があり、「右学校 左関国分寺道」とあった。 私が訪ねた時にちょうど公民館で老人クラブの会合が行われていた。そこで、白川神社について尋ねたところ、明石重治さんが神社に詳しい人を呼んであるので待っているように、と言われて、その間、老人クラブの人々から集落の話を聞いたり御婦人方が出してくれたお茶や菓子をいただきながら雑談したりしていた。皆さんが大変親切で恐縮した。わざわざ来てくれたご年配の方の話によれば、白川神社は白木町の白木神社と小川町の八幡社を合せて白川神社という名称にしたものであるという。白木町は古くは白木村であり、鈴鹿郡の豪族白木城氏が居住していたという。明治時代に白木山の白木神社に小川町の神社を合祀したという。かつて白川村が白木村と白木一色に分かれ、白木一色は関町に入り、白木村と小川村は亀山市に入ったという。今は亀山市となっているこの地方にはかつては白木(新羅)の人々の大きな集落があったのであろう。神社では毎日亀山特産のろうそくを灯し、伊勢神宮の方角を向いて拝礼しているというが元々は伊勢神宮とは関係なかったであろう。祭礼は十月十日が大祭。白木に係るものが他にないか尋ねたところ、下白木に「白木山誓信寺」(真宗)という寺があると教えてもらったので拝観した。浄土真宗の寺であった。更に白木町の西にある明星ケ岳の中腹(標高三一五mの地)に白木国分寺がある。天平十五年(七四三)聖武天皇の時代に行基が開創したといわれている。白木の虚空蔵さんとよばれている本尊の虚空蔵菩薩は嵯峨天皇の弘仁六年、弘法大師が当山に錫を留めて虚空蔵求聞持の法を修行中、明星の瑞光が柏の大樹に入るのを見、この柏をもって刻んだと伝えられている。その後、江州観音寺城主六角氏、日野城主蒲生氏等の兵火に罹り堂塔残らず烏有に帰したが、その都度復興して今日に及んでいるという。空海の柏と係わりがあるかどうかは不明であるが白木山誓信寺の住職は柏原氏である。国分寺を見るのにどのくらい時間か必要かを老人クラブの人々に尋ねたところ、「時間はたいしたことはないが草ぼうぼうで、山に登るのに苦労するから行かない方がいい」と言われ登るのをあきらめた。それにしても、古代、中世は国分寺を中心にしたあたりが、この地域の中心地であったと考えられるので、白木の集落が当地方の中心であったといえる。白木町の集落を抜けて布気町へ帰る道路の町はずれにも大きな石の鳥居が立っていた。往時の白木神社の鳥居であろう。本稿では亀山地方として、神社の所在地を町村合併後の亀山市としてあるが、平成の合併前は関市や白木町は鈴鹿郡で亀山市には入っていない。

(東京リース株式会社・顧問)





「新羅神社考」に戻る
「連載」に戻る

Copyright (C) 2002 Miidera (Onjoji). All Rights Reserved.