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三重県の新羅神社(5)

加茂村は中世には五村に分かれる。加茂神社の近くには京都の地名が多くあり、傍らの川は加茂川で岩倉に入ると河内川と合流し鳥羽の海に注ぐ。地名でも岩倉(岩倉には古代に祭祀に使ったと思われる磐座があり地名の由来ともいわれている)、河内等とあり、境内の祠の中には京都からお参りに来ている人々の名が多く記載されていた。御神体は見たことがなく判らないとのこと。神社の西側を加茂川が流れているが、昔は今程の大河ではなく、加茂川の下流、松尾村の一番地の船津まで鳥羽港から船が入っており、港であったところから船津といわれており、ここから開拓の人々が入る一方で、白木町の隣、志摩郡磯部町の伊雑宮についても、野川と山田川の二つの河が合流し伊雑ノ浦に注ぎ、更に的矢湾から太平洋に通じているので、この港(磯部町)からも開拓の人々が上陸したと考えられる。秦氏族であろうか。船津と磯部の丁度中間の白木町と松尾町、磯部町が接する場所に青峰山(標高三三六m)正福寺がある。志州第一の高山といわれ、東海舟行の目標となっている。相差村白浜の海中から木像の十一面観音が漂着したので、これを本尊として海上祈願の守り神としたという。二月にはお船祭がある。青峰山は遠く太平洋を望み、東北に菅島、神島の諸島、海上富士山を見、南は太平洋と熊野灘、西は紀伊国に至る山々を望む絶景の地であり、海上からも標的にすることができる。加茂神社の東側は山であるが、野村宮司の話によれば、古くは今とは違い、山の方に集落があったとのことであった。神社の脇から背後の方に続く細い道を登ると神社を見下ろす広場に出る。あたりには畑などが広がっており、集落の跡を偲ばせる景色が残っている。今は人々が川の西側に移ってしまい、集落はない。神社の運営は町の運営になっているという。神社の神殿は簡素で切妻平入りの拝殿(屋根と木柱のみで造られている)、倉庫のような型の切妻、平入りの弊殿(白壁造り)、本殿は伊勢神宮と同じ唯一神明造であるが、外壁が白壁である。これは斎場殿、即ち神楽殿であり平成六年に建造したもの。苔の生えた古い境内には神木や大きな木々がうっそうとしている。神殿の脇の柘植のような古い大木の根元に大きな岩石を中心にした石磐が祭られているので、相当古い神社であることを感じる。当社の例祭は三月八日であるが、七月十四日に天王祭という大祭がある。牛頭天王の護符授与の祭であるが、これは素盞鳴命を祭るものであり、現在のJR白木駅が松尾町にあることから推測すると、松尾にも白木神社があったということなのかも知れない。現在加茂神社を守る人々が「蕨岡だより」という月刊誌を出版し、当月の神事や行事について説明されている。小生の名前も掲載していただいた。賀茂村については「古へ伊雑神戸の刀禰職賀茂氏の此地に住せしに起因すること、猶ほ伊雑神戸の神官に磯部氏ありて磯部村と称するに至りしがごとし」(富久館蔵板「鳥羽誌」)。伊雑の宮の地は 伊雑郷、磯部ともいわれた。中世までは伊雑神戸の名が多く使われている。現在では伊雑を「いぞう」と呼んでいる。

③ 伊雑宮はもともと新羅系の神社

この宮は「皇大神宮別宮といわれ、創建は約二十年前垂仁天皇の時代に倭姫命が御贄地(皇大神宮へ奉る御供物を採る所)を定めるため志摩国を巡行した際に伊佐波登美命が奉迎してこの地に当宮を創建して皇大御神(天照大神)の御魂をお祭りしたと伝えられている(伊雑宮参拝のしおり)。 伊雑宮の正殿(神殿)についての説明は次のようである。

正殿の構造は内宮に準じ唯一神明造であって、御屋根の鰹木は六本、東西両端には内宮と同じ内削ぎ(水平切)の干木が高く聳え、南面して建てられています。周囲には内から瑞垣、玉垣の二重の御垣があり、それぞれ御門があります、とある。非常に簡素で清潔な社殿であり、木の香りがただよってくるような感じさえ受ける。地肌の出た木材の華麗な建物を見ていると古い時代の神社の原形を見る思いがする。加茂神社も全く同様な造りである。磯部の地名と神社について『磯部町史』は概略次のように説明している。町名の磯部は、古代以来当地に居住する氏族である磯部氏によっている。磯部は「紀」の応神天皇五年八月十三日の条に「諸国に令して海人(あま)及び山守部(やまもりべ)を定む」、また「記」の応神天皇の条に「此の御世、海部、山部、山守部、伊勢部を定め賜う」とあることから海部(あまべ)と共に海洋民の一集団を伊勢部(磯部)という部民(特殊な技能を持った職能集団)に編成したことが知られる。海部は漁業を専業とし西日本に多く見られるのに対し、磯部は半農半漁で伊勢を中心に東日本に多く見られる。中近世に伊雑宮の祭神を「天日別命の児、玉柱屋姫命」(「倭姫命世記」ほか)としているのは、磯部氏の氏神と考えてのことであろう。また『紀』の神功皇后元年の条にみえる「稚日女尊(わかひかるめのみこと)」とも言われる。粟島神戸と伊雑神戸は「輸庸帳」に大神宮神戸、粟島神戸、伊雑神戸とあり、粟島神戸の方が伊雑神戸より上位の神で、伊雑神の祭られていた地は現在の伊雑宮の場所ではなく(現在の的屋あたりか)、粟島神を祭る場(現在の伊雑宮の地)へ伊雑宮が合祀されたとみるべきであろう。 粟島神は出雲氏と同族の志摩国造が奉祭していた常世信仰にかかわる少名彦命と考えてよい。当地は海上はるかかなたの東方世界(常世国)から豊かな海の幸が運ばれてくるところと理解され、海の幸に多くを依存していた縄文時代よりその信仰が芽生えていたところといえよう(『磯部町史』)。これらの説明によれば、志摩国にも出雲族の進出があり、しかもそれは伽耶(新羅)方面からの渡来氏族が住んでいたことになり、伊勢国でみられた猿田彦命と同じである。なお、伊雑宮の御田植祭は千葉県の香取神宮、大阪の住吉大社と共に日本三代御田植祭となっている。

5 伊賀地方の新羅神社

伊賀国と伽耶(新羅)とのかかわり

伊賀国についての初見は安寧天皇の条に師木津彦命の子は伊賀の須知之稲置、那婆理之稲置、三野之稲置の祖とある。稲置という名称は氏姓制度の起源にさかのぼるものであり、その後、天武天皇の八色の姓では八位に位置付けられた。孝徳天皇の時に伊勢国に併合されたが、孝霊天皇の時代に伊賀国となったことが伊賀国風土記逸文に見える。即ち「伊賀の国は、往昔、伊勢の国に属きき。大日本根子彦太瓊の天皇の御宇(中略)分かちて伊賀国と為しき。本、此の号は、伊賀津姫の領る所の郡なりければ、よりて郡の名と為し、亦、国の名と為せり」と。大日本根子彦太瓊(おおやまとねこひこふとに)の天皇とは孝霊天皇。更に同風土記には「伊賀(いが)の郡(こおり)。猿田彦の神、始め此の国を伊勢の加佐波夜の国に屬けき(中略)猿田彦の神の女(むすめ)、吾娥津媛(あがつひめ)命、日神之御神(ひのみかみ)の天上より投げ降し給いし三種(みくさ)の宝器(たから)の内、金の鈴を知りて守り給ひき(中略)吾娥の郡と謂ひき。其の後、清見原の天皇の御宇、吾娥の郡を以ちて、分ちて国の名となしき。其の国の名の定まらぬこと十餘歳(ととせあまり)なりき。之を加羅具似と謂うは虚国の義なり。後、伊賀と改む。吾娥の音の転れるなり」とある。清見原の天皇とは天武天皇。『扶桑略記』には伊賀国は天武天皇九年に伊勢四郡を割いて立国したと記載があり、大化改新の詔には「名張の横河(名張川)までを畿内とする」とあるので、古くから大和と係わりの深い地域であった。また、阿部臣、阿閉臣、伊賀臣、筑紫国造、越国造などの有力七氏族が孝元天皇の長子大彦命を祖とする『紀』。また、孝元天皇と伊香色謎命(いかがしこめのみこと)の子である彦太忍信命は武内宿禰の祖父とされる『紀』とある。また、風土記には「カラコトト云所ハ、伊賀国ニアリ。彼国ノ風土記云、大和・伊賀ノ堺ニ河アリ。中嶋ノ邊ニ神女常に来て琴ヲ鼓ス(中略)神女琴ヲ捨テウセヌ。此琴ヲ神トイハヘリ」とある。風土記の記述は伊賀国が加羅国(伽耶・新羅)と係わりがあり、かつ、加羅(伽耶・新羅)の女神の渡来伝承があったことを伝えている。ところで、現在の伊賀市は平成の合併で旧の阿山町、伊賀町、上野市など六市町村が合併したものである。

伊賀の柘植と新羅

伊賀地方は亀山、鈴鹿地方と共に近江国に隣接しており、伊賀上野地方は大和や山城国などに隣接している。特に、大和国の巻向の東側には大兵主神社がありその山裾を登ると巻向山、その東方には白木や山辺郡都祁村、更に東に進めば伊賀の柘植へと続く新羅に係わりの深い道である。大和の都祁(つげ)は伊賀では柘植(つげ)となり、美濃国では土岐(とき)(天武紀に見える美濃国・礪杵(とき))、摂津国では闘鶏野(ときの)と表記されている。このツゲという名称は『三国遺事』に記載の新羅の迎日県、または都祈(とき)野からきており、大阪・摂津の坐摩神社の旧地は都下(菟餓)であり、坐摩神社の宮司は都下(つげ)国造を祖とするといわれている。いずれにしても都祁は日の出の意味であるので、太陽(日光)信仰と係わりがあるとされる(詳細は摂津の新羅神社で述べた)。三重県の柘植地方を間にして三重県側は伊賀の郷、滋賀県側は甲賀の郷が存在し忍者で有名である。甲賀の水口は智証大師が新羅神社を勧請した地といわれるが現在は残っていない。現在の三重県の亀山地方が古代に東海の海が入り込んでいたのと同様に伊賀から上野の辺りは太古、琵琶湖であったがその後、鈴鹿山脈の隆起で地形の変化が起こったといわれる。古代の柘植から上野にかけての集落は柘植川と服部川の河岸段丘の上に形成された。この地方にある古墳の多くはこれらの川に沿って存在している。また、大和から東国へ抜ける街道もこの川に沿っていた。

伊賀の古墳

伊賀地方は大和に次ぐといわれるくらい古墳が多い。古墳の多くは円墳であるが、前方後円墳もいくつか見られる。三重県下で最も大きい古墳は佐那具(さなぐ)(柘植と上野の中間地)の御墓山(みはかやま)古墳(四世紀後半)であるが、全長一八八m後円部径一〇〇m、全面葺石、陪塚二基現存している。更に最も古い古墳は阿山町・円徳院地内の丘陵の東端にある東山古墳で、御墓山古墳に近い。東山古墳は前期の古墳であるが、服部(はっとり)川の沖積地を利用している。平面が楕円形の高塚墳墓古墳の形態は弥生時代から古墳時代への過渡期の墳墓と考えられている。割竹形木棺からは、三角縁神獣鏡、銅鏃・鉄鏃(てつぞく)と土師器の高坏、器台などの副葬品が見つかっている。同じく前期の上野市にある石山古墳(前方後円墳)からも家型埴輪、碧玉製腕飾類などが出土している。また、上野市の城之越(じょうのこし)遺跡は伊賀盆地の木津川右岸の盆地に存在しているが古墳時代前期の祭祀遺跡であることが確認されており、低い丘陵の裾にあるこの遺跡では、三ケ所の井泉湧き出た清水が溝を流れて一か所に集まっている、溝の上流部に造られた広場と立石を持つ突出部につながる方形の壇上には構築物が確認されていないので、貼石の溝により区画された西域で井泉を囲む祭祀が行われた場所と考えられている。古墳時代には全国各地で水辺の祀りが確認されている。

(東京リース株式会社・顧問)





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