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三重県の新羅神社(6)

① 阿山にある穴石神社

近江の甲賀市甲南町から鈴鹿山脈の南の端が切れるあたりを抜けて三重県の旧阿山町にはいる。緩やかな丘陵地を越える。伊賀の上野盆地がはるか前方の下の方に見える。阿山伊賀線といわれる道路(49号)を下る。阿山町の役場の前の道を西に曲がる。近江の信楽方面である。石川の集落は山裾の南側にあるが、集落の北西部、ゴルフ場の裏から続く南側の山裾の森の中に神社がある。神社の前を河合川が流れ宮前橋がかかっているがこの橋の手前も渡った先も道路は双方向に分岐するが、道路は細く森に囲まれて神社の前方は見えない。南面した神社は正面の鳥居から奥の本殿までが直線上にある。神社は植え込みに挟まれた低い石段の上に石の神明鳥居、左に穴石神社と刻まれた石柱(明治三十六年)、その背後に鳥居と同じくらいの高さを持つ石灯篭がある。右の灯篭の背後に大きな鐘楼堂がある。神仏習合の名残であろう。平の参道には献灯された石灯篭、背後に杉や山桜の木々が高く聳え、潜り抜けると広場にでる。広場の中央に入り口と同じ石造りの神明鳥居があり左に手水舎、右に石灯篭がある。鳥居には扁額はない。拝殿と本殿、境内社のあるところは石の玉垣で囲まれており、特に幣殿・本殿は側面を板塀で囲ってある。本殿の左右に境内社がいずれも流造で祀られてある。左側の社は小さいが五段の石段があり、広い場所にあり本殿と同じ造りである。右手の社は大きく登高欄がついた立派な社殿。屋根は流造であるが本殿とは異なる。近くに室町時代の宝篋印塔が保存されている。教育委員会の説明板がある。「この宝篋印塔は、青岳山にあった毘沙門寺から移されたもので、基礎には五行の刻銘があり、南北朝中期延文四年(一三五九)一月十五日の造立銘が確認された」と書かれている。大きな拝殿は入母屋、平入りの建物で正面入り口の左右にそれぞれ三面の格子戸と白壁を持ち、背後に幣殿と本殿をもつ。本殿は一段と高い処にあるが、流造で唯一神明造に似た形の立派な木造の社殿である。本殿の脇に神宮遥拝所と宮城遥拝所と刻まれた石碑が立てられている。現在の穴石神社は旧天津社が明治三九年に改称したものであるといわれているが、「延喜式」には式内社・穴石神社の記載があるので、古くから存在していたものと考えられる。天正九年(一五八一)織田信長との戦乱で社殿、古文書の類は全て焼失してしまったので、創祀の年代は不詳であるが、この阿山町石川の穴石神社が伊賀国・阿拝郡にあった穴石(あないし)(穴師(あなし)神社ともいう)神社であると思われる。明治四〇年に河合川の向かい側の青岳にあった白石神社(毘沙門寺をもつ)ほか数社を合祀している。この白石は新羅であろう。現在の祭神は木花佐久夜比売命、素盞嗚尊(大和の穴師坐兵主神社と同神としている)をはじめとして天長白羽命、市杵島比売命、仁徳天皇などを祀る。この神社については、「伊勢国風土記」逸文に「伊勢と云ふは、伊賀の安志(あなし)の社(やしろ)に坐(いま)す神、出雲の神の子、出雲建子命(いずもたけこのみこと)、又の名は伊勢都彦命(いせつひこのみこと)、又の名は櫛玉命(くしたまのみこと)なり。此の神、昔、石もて城を造りて此に坐しき。ここに、阿倍志彦(あへしひこ)の神、来奪ひけれど、勝たずして還りき。因りて名と為す」(岩波古典文学大系「風土記」)とあり、頭注に「安志の社に坐す神は柘植町の穴石神社。伊勢津彦神を風神としての社名。アナシは西北風の称。出雲の神は大国主神。出雲建子命は建御名方神、阿倍志彦の神は伊賀の西北部(阿拝郡)に勢力を持った安部氏の神」と説明している。文献が焼失したために式内社穴石神社(あないしかみのやしろ)について、諸説がある。「三国地志」は現在の石川の穴石神社としている。また、入交省斎も「標註伊賀名所記」で現在の穴石神社をこれにあてている。度会延経「神名帳考証」は上野市の小宮神社を、また伴信友「神名帳考証」では柘植村の石神社(現在の現都美恵神社)としている。

② 柘植町の都美恵(つみえ)神社

伴信友が「神名帳考証」で式内社穴石神社にあてている社が柘植町にある都美恵神社である。この神社は柘植の集落の真ん中にある。近くに「風の森」といわれる倉部の地がある。この風の森は琵琶湖を渡った冬の季節風が北東の湖東地方から上野盆地へ吹き込む入り口といわれている地という。しかもこの地は伊勢から伊賀への入り口でもある。「伊勢国風土記」逸文には先住の神である伊勢津彦が大和王権に敗れて国を去る時に八風となり、光輝き東に去ったという説話があり、伊勢津彦の神は風の神とされ「アナシ」は元来「アラシ」を意味しているので、穴石の神社がこの地にあったという説の根拠となったものである。神社の入り口に大きな石造の明神鳥居があり、銅板の扁額と注連縄が掛けられている。鳥居の左手に自然石でできた大きな石灯篭(まったく同じ灯篭は石川の穴石神社にもあった)があり、神宮遥拝所の刻まれた大きな石碑があり、説明の石板もある。「神宮遥拝所とは…この柘植の地は皇大神宮が伊勢の五十鈴川の川上に…倭姫命が天照坐皇太御神を奉載され…柘植川上流沿岸の当地に敢都美恵宮(元伊勢)として二年間鎮座し奉斎されたという史実があり…」。この神社も鳥居から拝殿、本殿が一直線上に並んでいる。境内地の左には大きな幼稚園の建物がある。拝殿の前には石垣が三段になって作られており長い石段を登ると上段の高い境内地に社殿がある。石段の手前には二の鳥居がある。鳥居の前に石灯籠や神社の由緒を書いた石碑などがある。また、石垣はしっかりしていて、一段目の石垣の上は道路になっている。この神社も社殿のある境内地は石の玉垣で囲まれている。大きな拝殿は入母屋造で唐破風の向拝を持つ。ここにも注連縄が掛けられており、十間くらいありそうな幅で、中央は開いているが、左右は格子戸の障子と白壁でできた立派な社殿である。本殿は更に高い場所にある。拝殿、幣殿、本殿とそれぞれ一段と高い場所に建てられている。本殿は穴石神社の本殿と同じ流造で檜皮葺の屋根を持ち唯一神明造に似ている。左に流造の相殿がある。右手には社務所の建物があり、都美恵会館などもある。左側の奥から本殿の背後の山に登る道があり、しばらく登と石室のような穴があり、更に道を登ると小さな平地があり、簡素な神明造の社殿があった。二間ほどの幅で上半分が格子戸、下半分は板でつくられている。扁額はないが、石の鳥居の横に石柱があり、耶須久尓と刻まれていた。石灯篭に奉納・米寿記念・村主種次郎・郷土史研究家・という文字もあった。

穴石神社と渡来の人々

祭神は栲幡千々比売命(たくばたちぢひめのみこと)ほか三十五柱。相殿は倭姫命。神社の社務所でもらった由緒書には「当神社の創立年代は詳かではありませんが、旧記によりますと敏達天皇の御代此の郷の長、神を祀り穴石大明神と号す。光仁天皇の御代勅命にて社地社殿の御制定あり。と伝えられ、当時は霊山の中腹穴師谷(あしだん)に祀られておりました。その後、寛永二一年(一六四四)の大洪水によって社地社殿が悉く決潰したため、正保三年(一六四六)現在の鎮座地柘植町の中央字北浦の丘陵の半腹、森厳実に近郷無比の神堺に遷座し、柘植地区の産土神として奉斎されてきたのであります。大正一一年七月までは、穴石神社の社号で親しまれてきましたが、明治四二年四月を以て合祀による一村一社の実を挙げた(有栖川宮殿下の御染筆写扁額を下附)ことから、倭姫命世紀、伊勢御鎮座遷幸囲略、神道瑚l集、二所皇太神宮遷幸要略記に記載の敢都美恵宮(元伊勢)から都美恵の名をいただき、現在の社号となったのでありますが、都美恵は柘植の古語であり伊勢神宮と縁の深い地であります」とある。当社の参道入り口から西へ五〇mの地に敢都美恵宮跡の石碑がある。一方で神社の二の鳥居の背後にある御影石に刻まれた由緒書には次のように記載されている。「御由緒・都美恵神社の起源は古く西紀二、三世紀以前ではないかと思われる。我が国へ渡来してきた北方民族(出雲民族)がこの柘植へ移住してきたことは、伊勢風土記逸文に、伊賀の事志の社に坐す神、出雲の神の子出雲建子命、又の名は伊勢津彦の神、又の名天櫛玉命、此の神、昔、石もて城を造り、其の地に坐しき、ここに阿倍志彦の神、来り集い勝たずして還り却りき。因りて名を為しき云々とあることからも、霊山の中腹穴師谷にこれらの民族の祀っていた神であることは事実のようだ。この神社のもとの名は穴石(穴師)神社又は、石上明神ともいって上柘植村の産土神として祀られていたが、寛永二十一年(一六四四)の大洪水の為社地欠損甚だしく、正保三年(一六四六)今の地に移されたことは、種々の古文書から明らかであるし、その時の社殿造営の棟札(式内社正保三戌年八月二十七日)も町文化財として今日残されている。この神社の祭神は栲幡千々比売命(たくばたちぢひめのみこと)、布都御魂命(ふつみたまのみこと)、布津主命(ふつぬしのみこと)外三十三柱となっているが、又他の一本によるともと祭神は木花開耶姫(このはなさくやひめ)であったとも伝えられている。都美恵の社号については、一村一社の合祀(明治四十二年四月)後、大正十一年七月に現社号に改称されたもの。倭姫世紀、伊勢御鎮座遷幸囲略等にある敢都美恵宮から敢をとって撰定されたもので、即ち都美恵は柘植の古語であり、神宮縁りの地でもある。こうした由緒のある宮をわれわれの産土神として末永く杞りつぎたいものだと思う。村主種次郎 記。例祭日・毎年四月五日 渡御あり。鎮座地・伊賀町大字柘植町字北浦二、二八〇番地」。由緒は石碑に書かれた方が、祭神の栲幡千々比売命は紀の神代に高皇産霊神の娘として天忍穂命と一緒になり天火明命を産んだともまた天忍穂耳命と一緒になり天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほのあかりのみこと)(饒速日命)を産み更に天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)(降臨神)を産んでいる。この神が大山祇神の娘の木花開耶姫を娶り彦火火出見命や火酢芹命を産んだとされる。いずれにしても、この祭神は記紀神話に基づいて作られたものと考えられるので、元来の祀られていた神は早い段階の鉱山に係る技術を持った渡来系氏族の神であった。風の神も製鉄の神である。今までの二社を比較してどちらが式内社の穴石にあたるかは単純には決められないが、後者は穴石山に鎮座(「神名帳考証」)していたとあるが、穴石は穴師と同じところからすれば、穴石も穴師も共にアナシであり安羅・安那(穴)之(之はシデの意味)、半島の南部の氏族が祀った神である可能性が強い。穴師神社であったのであろう。

6 伊賀上野にある新羅神社

いずれも柘植川と服部川の間にある。この辺りは盆地で伊賀米の産地である。伊賀上野は柘植川と服部川が合流し更にその先で木津川と合流しこの川は奈良、京都を経て淀川に至っている。従って難波の海から遡れば、この地方に至ることができたことになる。

(東京リース株式会社・顧問)





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