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兵庫県の新羅神社(5)

参道の先に石段が五段程あり左右に石垣が積まれているので、石段の上は台地状になっている。左右に石造の大きな狛犬が石の台の上に置かれている。更に石段を登ると大きな銅板葺の屋根の入母屋式拝殿がある。石段の高さと同じに石垣が築かれており、その台地の上に社殿がある。拝殿の前に棟門(二本の柱の上に切妻屋根をのせただけの形のもの)が対になって置かれている。それに続く拝殿は向拝や組高欄などがつけられた立派な建築物である。拝殿の間口は広く二〇mくらいありそうである。中央に太い注連縄と紙垂、五色布や麻縄鈴、白い幕も張られている。幕には「白国老人会ゲートボール部一同」と書かれていた。拝殿は壁がなく、奥にある幣束や榊の置物が見える。この拝殿は珍しい建物で、拝殿の背後の部分にもう一つの建物が建てられており、正面から見ると、拝殿の左右に拝殿の屋根と同様な切妻屋根と柱や壁が付けられた建物になっている。側面は開いており階段などがついている。その背後に幣殿と本殿がある。幣殿は切妻屋根、銅板葺、本殿は八幡造の前殿のような形の建物である。屋根には千木や堅魚木がついている。本殿の屋根も銅板葺。全体に雄大で立派な社殿である。幣殿と本殿の周囲は細い木の棒で作られた透塀で囲まれている。本殿の奥は山の裾を切り開いた崖のような感じで、幾つかの大きなむき出しになった岩石とそれを覆う森の木々が見える。切り開いた山裾ぎりぎりの所に社殿が建てられていることになる。当神社の境内は約五千坪。境内社が四社ある。拝殿の右手に朱色の鳥居を二つもち、流造の小さな社が石の高台に置かれている。「山森大明神」(稲荷社・食保(うけもち)神)、春日造の社殿をもつ八幡社(誉田別(ほんだわけの)命・応神天皇)、池鯉鮒(ちりう)社(美穂津姫神)、この神社は覆屋の中にある流造の社殿である。そのすぐ手前に山神社がある。小さな石造の社殿(流造)が石の台の上に置かれている。神社と増位山、廣峯山の裾野一帯には古墳が点在しており、中でも神社の北西部にある御輿(みこし)塚古墳は横穴石室をもつ径一五m・高さ三mの円墳で蓋は巾一・二m・長さ二mの平屋根形の石で退化した縄掛突起が認められ、この石棺は神の乗る輿であるという伝えがある。東北の増位山の裾、権現山にある権現山古墳も近くにある。全長一四m・高さ三mの方墳である。

神社の由緒

神社は式内社。鎮座地は白国字山田(現在は白国五丁目)。祭神については神社境内にある説明板に「播磨国四の宮・当神社は凡そ千七百年の昔景行天皇の曾孫阿曽武命がその室高富媛難産苦悩に際し蒙った神恩に報いるために創祀した古いお社で御祭神の木花咲耶姫命は天照大神の御孫天津彦彦火瓊瓊杵尊の皇妃にましまし古事記神代巻に見える御事歴によって安産をはじめ広く女人守護の神とたたえられ歴代朝廷ならびに武門、領主の崇敬厚く古来安産を祈願し霊護を蒙った人々は数知れず明治七年郷社に昭和十年県社に列せられた。例祭十月九日、節分祭二月三日、湯立祭七月第一日曜日、安産祈願祭毎日」と書かれている。一方、神社で発行している「白国神社略記」には、祭神・神吾田津日売(かみあだつひめの)命またの御名・木花咲耶媛命、稲背入彦命及び阿曽武命(稲背入彦命の孫)の三神と書かれている。主神の神吾田津日売命の別名は木花咲耶媛命(このはなさくやひめのみこと)(天照大神(あまてらすおおかみ)の孫の瓊瓊杵(ににぎの)命の妃)である。創立「当神社は今を去る千七百年の昔、景行天皇の皇子稲背入彦命が大和から当地方へ下向された時、この白国の地に住居を構えて播磨地方を支配された。その御孫阿曽(あそ)武命の妃高富媛が難産のため大変苦しまれた時、命は倉谷山の峰に白幣を立て、神吾田津日売命を祀り一心に安産を祈願されたところ女神が忽然と現れ「妾が神吾田津日売である。汝の祈りは天に通じている。妾がこの地に永く留まって婦人を守護し安産させましょう」とお告げになると白幣が高く天に舞い上がり、その白幣と共にお隠れになったので、急いで帰られると難無く男子を出産されました。阿曽武命はその神徳に感謝され早速倉谷山の麓に社殿を設け、神吾田津日売を祀られたのが白国神社の創立である。」と書かれてある。白幣山は廣峯三峰の一つ、廣峯神社本殿の背後に見え、標高二六〇m、別名、神山、西ノ峰など、白幣山は素盞嗚尊の霊気が立ち昇り、あたかも白幣の閃くごとく見えたところからこの名称となったという。もう一つは東ノ峰である。御神徳の神話によると「木花咲耶媛が一夜にして妊まれたので夫の瓊瓊杵命が疑われ、自分の子ではないといわれた。媛は憤然として、私はただいまから産みますが、私の腹の子がもしあなたの子でなければ必ず消滅するでしょう。またあなたの子であれば、ぶじ生まれるでしょう。といって八尋殿(産屋)をつくり、その中に入っていよいよ出産という時に御殿に火をつけて燃えあがらせ、その中で、矢つ神をお産みになりました。美の神様は純潔の神様であり、どのような逆境でも安産なさいました…」とある。神社に掲げられている説明板にも同様な説明がされている。一夜にして、妊む話は雄略紀にも記載がある。その他の資料も同様な中味が多いが、要約すると「稲背入彦命はこゝを根拠地として田畑を拓き水割を図り、よく治水の実をあげられて豪族となり、針間(播磨)別命といわれ、現在の宍粟郡あたりを根拠とした伊和大神と並ぶ勢力をもち、ご逝去後、市川を渡り霞野丘に葬られ国別明神と称えられた。今の国分寺東北方の壇場山古墳は、この命を葬ったとの説がある。稲背入彦命の孫に当る阿曽武命(白国家の始祖)の妃高富媛が難産のため大変苦しまれた時、命が倉谷山の峯に白幣を立て、神吾田津日売命(木花咲耶媛命)を祀り一心に安産を祈願され、安産の神徳に感謝した阿曽武命が倉谷山の麓に社殿を設け、神吾田津日売を祀ったのが白国神社の創祀である。この御生まれになった阿良津命が幼時より大変信仰心が厚く、ある日社殿でお祈りをしていると白髪の老人が現れて「吾は汝の先祖国別明神(稲背入彦命)である。汝が毎日神に祈りを捧げる気持ちは感心である。必ず幸福を与えてやろう。」といって、墓のある川向いの方へ飛び去られたので、このことを父の阿曽武命に話されると父も又昨夜夢枕に貴人が現れ、墓にある二面の鏡の中の一面を持ち帰り社殿に祀れとのお告げがあったと言われたので、急いでお墓に詣り鏡を持ち帰り神吾田津日売命の社殿に稲背入彦命を合祀したという。その後、阿良津命は大和朝廷より地方長官である播磨の初代国造に任ぜられその上、「佐伯直(さえきのあたい)」の姓を賜り地方政治を分担されるのであるが第十六代の応神天皇は阿良津命の父・阿曽武命がかつて朝廷で忠勤を励んだ功績を讃え神吾田津日売命の社殿に稲背入彦命と共に、阿曽武命を相殿に配祀させたのでここに三座合祀の白国神社となった。以上の三神合祀の白国神社は白国神、又の名を新羅国国主大明神(白国々主明神)或いは日の宮と称した…元慶元年延喜式制小社に列し…その後考謙天皇の勅命により新羅国を白国に改めたという。」(白国郷土史愛好会編「ふるさと白国」、「播磨鑑」、「峯相記」、「兵庫県神社誌」、「姫路紀要」など)というところが通説である。更に、白国神社については諸説がある。「延喜式神名帳」には播磨国四の宮となっており歴代朝廷や武門領主の崇敬が厚かった。「白国氏小所蔵文書写」の「針間国雌鹿間郡新羅国国主大明神社御縁起」には「白国国主大明神社所祭神・三座…針間別稲背入彦命、神吾田津比売命、新羅国阿曽武命とあり、阿曽武命について「新羅国阿曽武命」と記載されているのは、神功皇后の三韓征伐の際に功があったことから、阿曽武の居住地(雌鹿間野)を新羅国と改め、姓も新羅国阿曽武となし、雌鹿間野を新羅国庫谷に改めさせたことによるものであることが説明されている。そして、「神社覈録(かくろく)」には「白国ハしらくにト訓ムべし。…」「白国神社…祭神国方媛命」、「神社歌寄」は「白国社…シラギノ神は白国大明神。おとにこそくらたに山と名にふれてしらきの神のひかりますらん…」、「播州名所巡覧図会」には「白国大明神。…祭神国方媛命は当国の四ノ宮と称す」、「神社歌寄加補」に「しらきの神とは白国大明神岩津姫を申すか峯相記に見ゆ今考崇神御女国方媛を崇祀惣代重守伝天正元年記に見ゆ四ノ宮白国大明神今考岩津姫…」、「神名帳考證」にも「白国神社五十猛命。…日本紀云五十猛神降於新羅国」、「特選神名牒」は「今按社伝祭神神阿多津姫命とあれと播磨鑑に古伝承として祭神国萬媛命といひ、峰相記には開化天皇第一姫宮とも賀茂大明神とも云いて一定せざれば…播磨風土記枚野里の条に新羅訓村所以号新羅訓者新羅国人来朝之時宿於此村故号新羅の国人に由ありて新羅人の祖神を祭れる社なるべし」など、また「神祇志料」に「白国神社、四宮白国明神という。播磨国圖(図)按に白国神社を以て蕃神といえり蓋し白国、新羅相近き時は疑うらくは新羅国の神也」。「廣峯神官伝」は「白国は新羅也。昔廣峯の牛頭天王が新羅国より帰朝の時此の地に少時休んだ故に此の地を白国という。新羅、白国和訓近し」。「神社文書」には「御紋付・高張御提灯、右御寄付…明治三年一〇月一〇日 社記局印 神主白国才吉。〇是より北壱里白国神社白国村在、右之通標木大黒町蕃廰(ちょう)より御達被成候事。但以来は其村より相達可申事。社祀局印白国神主」などの記録が見られる。

「兵庫県神社誌」には境内五三八四坪、境内神社三社のうち、稲荷社(稲倉魂神)の由緒について「神社明細帳」の記載を引用して「飾磨郡水上村。現在は姫路市(昭和八年)。白国より大正一五年一一月二五日合併」と説明している。他の境内社の「八幡社」には説明板が立ててあり「祭神・誉田別神(応神天皇)。当社の社殿は享保十四年の建造と伝えられ、旧白国神社本殿造営にあたりここに移されました。」と記載されている。また、「池鯉鮒(ちりう)社」にも説明板が立ててあり、「祭神・三穂津姫神。由来・当社は古来蝮(まむし)除けの神様として農耕作業の安全を祈るために祀られましたが、近年学問縁結びその外総ての願い事を叶えてくださる格別信仰の厚い神様です。」と記載されている。




(東京リース株式会社・顧問)





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