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兵庫県の新羅神社(15)

小学校前の道路を挟んだ対面には生協の建物がある。白色の高いビルである。そこは、園和小学校北西という交差点でもある。交差点を左折すると生協の建物横に右折する道路がある。住宅街を通る道。道路の奥に白井神社の看板と民家の裏手に神社の森が見える。道路沿いに古びた石造の明神鳥居。「白井神社」の石柱。境内の周囲を氏子と思われる名前の刻まれた低い石柱で囲んでいる。太い注連縄と銅板の扁額。参道奥の社殿の前に、比較的新しい石造の大きな二の鳥居である明神鳥居がみえる。両鳥居とも「白井神社」の扁額。道路の鳥居から神社の拝殿が見える。石灯籠、石造の狛犬。社殿の周囲も低い石柱で囲まれている(荒垣)。拝殿は瓦葺・入母屋造で側面は白壁、正面はガラスの格子戸、小さな二段の切り妻屋根の下にある入り口の両側に、大きな白い提灯が提げられている。注連縄や紙垂が飾られ、鈴と紅白の布、麻縄が吊られている。幣殿は瓦葺切妻造。本殿の覆屋も瓦屋根入母屋造(三坪)で中に一間社流造(一坪)の本殿。市内にある白井神社の中で社務所があるのは当社だけである。私が訪ねた時には、栃尾直市宮司(故人)の夫人がおられて色々と説明していただいた。上品な方であった。訪問時に提灯や灯りがともされていたので、今日は祭日ですかと尋ねたところ、夫人は「当社は、毎日、神社の扉を開けて灯りをともしています。毎日掃除をするのが大変です」とのことであった。更に、由緒を尋ねたところ、「白井神社」と記載のある由緒書を示しながら丁寧に説明してくれた。今の宮司は、御子息が務めておられ、東園田五丁目にある白井神社も一緒に管理しているとのことであった。当神社は日本でも珍しい歯の神様で、昔から歯が痛い時には、当神社にお参りに来た人々が多く、「先日も福岡の人が来ました」との話であった。
祭神の天手力男神(あまのたちからおの)については、「天之手力男命は、天照大神岩戸隠れの神話で有名な、岩戸開けの勇武の神であります。尚天孫邇々杵命(ににぎのみこと)御降臨の際、供奉して忠誠を尽くされ、これ等御神功により、伊勢内宮正殿に天照大神を中心に万幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめみこと)(高木神の女・記は満秦豊秋津師比売命・紀は栲幡千千姫(たくはたちぢひめ))と共に、両側に御配祀神として奉斎されて現在に至って居ります」という。天正六年(一五七八)に本殿の改築、宝永五年(一七〇八)と昭和二年に拝殿の改築がなされている。楡の大木の御神木にメ縄が張られている。境内には楡や欅の木が多い。神社の由緒については、神社発行の「由緒沿革」よれば概略以下の通り。当社の創立の年代は詳らかでありませんが、享保年間発行の(二五〇年前)の摂津誌に「式外、白井天王祠・穴太に在り、隣村又各々祠を建てて之を祀る」とあります。これによって、当時既に近郷に聞こえ高く、社頭殷賑を極めていたことがうかがわれ、創立の年代は遥かに遡るものと思われますが、これを証する古文書等一切が何時の時代にか失われて、何一つ残されておりませんので、次の様な事由を種々綜合して、約千二百年前、聖武天皇の御宇、天平時代と推定されます、即ち、田能遺跡が発掘されて(当社よりの直線距離一、五粁)当地区が二千年前既に相当広範囲に土着民の集落が点在していた事が明らかでありますが、その一つと思われます。当神社往古の鎮座地「穴太」(昭和三十六年迄尼崎市穴太一〇七番地)という地名が、現在滋賀県坂本穴太町、京都府亀岡市曽我部町穴太、大阪府八尾市穴太と畿内でも四ケ所に同一地名が現存して居ります。これら等の地名夫々古文書で探ってみました時、雄略天皇の御代(一五〇〇年前)に「穴穂部を置く」とあります…日本書紀、この「穴穂部」が後「穴太部」とも記されており…古事記外、同一のものに違いありませんが、これは安康天皇(安康は謚名で御生存中は穴穂天皇と申し上げた)の「御子代の部民なり」とあります…天平勝宝記、神風抄、姓氏録外、当時大和朝廷が地方統一の政策に氏姓制度をつくり(四世紀〜七世紀)同一の祖先から出た一族を「氏」といい、氏族中の地位の上下を表す為に「姓」を設け、この氏の総本家の家長が氏上(うじがみ)と呼ばれて一族を統率しました。更に氏ごとに守護神を祭って、氏上は氏神の祭司となったとあります。現在の氏神社のはじまりであります。この氏、姓についてみますに「穴太氏を祝部となし累代奉仕す」…竹生島縁起「宗形部麻々伎姓を穴太連と賜ふ」後に「穴太宿禰と賜ふ」…朝野郡載、拾芥抄外、「穴太伊賀守」…浮田分隈帳。等々の記録があります。以上から考察して当社の創立は、此の時代迄遡って考えられない事もありませんが、穴太部が置かれて直ちに氏神祭祀が行われたとは断定し難い点もあり…第四五代聖武天皇の天平九年(一二三一年前)に「畿内七道に使を遣わし諸神社を造らしむ」…続日本紀、とあります。…当神社等の場合はこの指令による創建と推定いたします。…「白井」の名称は、創建当時此の地帯が白井河原と呼ばれ、海岸線にほど近い河口で、その河原名をとったものと伝えられています。…何時の頃からか「歯神」と称されるようになり、…という。田能遺跡は先に見たように、弥生時代全期に渡る大集落跡が見つかっている。従って当地は弥生時代に人々の定住があったことになる。「兵庫県神社誌」は、鎮座地・園田村穴太字神楽田、創立年月不詳と記載している。「尼崎神社案内」は「創祀年代は不詳だが、古くより歯神社の俗称で親しまれ、歯患平癒に霊験がある」と伝えられる。享保年間発行の『摂津誌』には「白井天王祠穴太村に在り隣村亦各々祠を建てて之を祀る」とある。天王祠といわれたことは、牛頭天王との習合であろう。とすれば、祭神は素戔嗚尊である。尼崎市立地域研究史料館「尼崎地域史事典」には、「一説にはこの地域は、古代における渡来人のひらいた村で、穴太の白井神社は新羅神社の転訛と考えられている」とある。「尼崎史研究」(尼崎市史編集室)第二巻に落合重信氏の研究「地名からみた尼崎地域(続)」の中に、次の様な記述がある。渡来人系氏族といえば、前稿で述べた白井神社のことを補足しておきたい。穴太村は渡来人系氏族のひらいた村で、その氏神白井神社は新羅神社の転訛ではないかとした…白井神社というのはあまり例がないが、新羅神社は別である…大阪にも新羅神社があった。山根徳太郎「難波王朝」には、「その新地には、渡辺村唯一の神社が祭られており、その神社は毎年坐摩神社の夏祭のあくる日に、新地の祭として祭つづけられた。明治四十五年十二月十一日、時の為政者によって、この神社は坐摩神社にあわせまつられることとなったが、この神社は白木神社とよばれていたのである…」この白木神社は新羅江庄から出ているから、明らかに新羅神社である。こうした例はほかにもある。…姫路市白国の旧家に白国氏とともに白井氏がある。旧穴太村の白井神社を祀る地域の近くにも渡来人秦氏の氏神とされる稲荷社を祀る村々がある。この地方は古代に渡来人系氏族が居住していた色彩は濃い。この記述をみても白井神社は新羅神社であったであろう。祭神は後世に変わったものと思われる。当社も境内社に稲荷神社(保食神)がある。境内地三六六坪。

例祭については、大祭の夏祭(七月二十七・二十八日)、例祭(十月二十七・二十八日)、歳旦祭、紀元祭、稲荷祭、春祭、秋祭ほか。

②東園田五丁目の白井神社

白井神社の鎮座地は東園田町五丁目七三(旧園田村法界寺字中之町)。東園田四丁目の神社と同じ宮司の管理になる神社。祭神は天之手力男命、底筒男命、誉田別命、保食神の四神。境内社には住吉社(底筒男命)、八幡社(誉田別尊)、稲荷社(保食神)。

当社は東園田四丁目にある白井神社から東へ五〇〇mくらい歩いた場所にある。阪急神戸線の園田駅から北東へ十分程度の距離である。園田東中学校の西側、道路を挟んで中学校と向かい合っている。神社は道路に面して比較的新しい石造の明神鳥居があり、「白井神社」の扁額と注連縄がかけられ、境内地は低い石柱で囲まれている。氏子と思われる氏名が刻まれている(荒垣)。境内地は小さく三〇〜四〇坪くらい。道路に面して正面が十五m程の巾で、奥行が長い長方形をしている。一番奥に東向の社殿がある。鳥居の背後に参道があり、神社の拝殿が見える。四丁目と同じ瓦屋根の建築であるが、拝殿・殿・本殿は最近改築したらしく石造りの建物であった。拝殿は一見すると八脚門のように見える。拝殿の前に木を組み合わせた鳥居のような枠があり、注連縄や紙垂が架けられている。拝殿の中央には二間くらいの格子戸があり、閉まっていた。本殿は覆屋と思われるが切妻・瓦屋根の建物。境内社も石造。境内には楡や欅の木が多い。「兵庫県神社誌」によれば、由緒については、創立年代不詳。「本殿 三合三勺・幣殿・一坪・拝殿四坪五合」とある。

(東京リース株式会社・顧問)




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