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兵庫県の新羅神社(16)

2 善法寺町の白井神社

東園田町より南の善法寺町にある。

祭神は天手力男命。

善法寺町は藻川の西側の町であるが、神社へたどり着くのに苦労した。善法寺町へ行く道を出会うの人に尋ねてみたが、若い人達は知らないひとが多く、たまたま、年配の方に親切に教えていただいた。穴太にある白井神社を後に、県道四一号に沿って南へ下る。藻川に架かる園田橋を渡ると川の土手に道路がある。この道路を左折し(南東)、藻川の堤防の道を歩く。道路は二車線の巾であるが、余り広くなく、歩いていると対向車に轢かれそうになる。藻川の堤防は信玄堤方式で二段になって、洪水の害から守るよう工夫されていた。海抜が低いので洪水が多かったのであろうがどのようにして手法が伝わったのであろうか。善法寺町の白井神社はなかなか見つからず、堤防の道で中年の婦人にやっと道を教えてもらいたどり着くことができた。堤防から分岐して下に降りる道を歩く。町の方へ50mほど降りた。まだ、神社の森らしいものが見えない。住宅の中の道をしばらく歩いていると、住宅の間に挟まれる感じで神社があった。この一帯は下町風の家が軒を連ねている。神社の正面以外は木造二階建のアパートに囲まれていた。神社の背後にあるアパートのすぐ裏手は、藻川の堤防の壁である。

距離は園田橋から500mくらいで意外と近かった。神社の境内地は二百坪程度ある。建物は立派である。入り口には古い石の明神鳥居。境内地は石柱の荒垣で囲まれている。鳥居の脇に「善法寺農業会」と刻まれた小さな石柱があり、順次氏子名の刻まれた石柱が並んでいる。鳥居には石造の「白井神社」の扁額。鳥居の左手に西明寺堰の記念碑がある。藻川の堰のことのようである。背後に御祭神の説明の碑。右手に手水舎。更に後方に木造流造の小さな境内社と丸い石三箇を積んだものが、石の台の上に置かれている。参道には平石が敷き詰められて、石灯籠は狛犬の前に二基、狛犬の背後に一基。拝殿は入母屋、瓦屋根の建物。白壁と板の壁である。唐門のような向拝がついている。向拝の梁に、金色の文字で書かれた「白井神社」の扁額。総檜造りの拝殿、弊殿、本殿、白壁と板を使ったきれいな建物は覆屋のようである。「兵庫県神社誌」によれば、本殿は流れ造り。社殿の周囲には楡や銀杏の大木が茂っている。神社の説明碑によれば、天保十四年改築、昭和三十三年五月改築されたとある。祭神は天手力男命。天手力男命は、神代のむかし、天照…と古代神話が記されている。創祀は不詳とあるが、記念碑には、昭和三十三年、善法寺農業会所有地が売却されたのを機に敬神の念厚き会員たちが浄財を寄付、総檜造の現在の覆屋を新築したとも記載されている。相当な金額がかかったと思われる。先に見た東園田の白井神社の項で、享保年間発行の『摂津誌』には「白井天王祠穴太村に在り隣村亦各々祠を建てて之を祀る」とあるので、当社もその一つと考えられる。例祭は十月二十八日(祈年祭三月十五日。新嘗祭十二月十五日)。

3 額田町の白井神社

祭神は天手力男命で今迄見た三社と同じである。

額田町は善法寺町の南にある。藻川の西側である。猪名川との合流地に近い。善法寺町から藻川の堤防に沿って、更に南へ1000mほど歩く。その先が猪名川との合流地点である。途中、弥生ケ丘墓地がある。堤防の下にある公園式墓地である。
墓地は藻川に架かる東園田橋からのびる道路で東西に二分されている。墓地の奥に斎場や火葬場がある。この墓地は石柱のような墓石を山状に積ん
だ珍しい墓である。
新羅の安東塔の石積み遺構と墓同じような形をしており、一見すると異様な感じを受ける。奈良時代の築造で「仏教の戒檀」或いは「墳墓の塔」などといわれている。「舎利式壇」であるともいわれているが、いずれにせよ新羅系のものであるとされている。墓地の西側を通る細い道路が南東方向へ通じており、それを通って、名神高速道路の下を抜けてしばらくすると白井神社が見える。弥生ケ丘墓地は高速道路と藻川、及び隣町の善法寺町に囲まれている。白井神社の周囲は新興住宅地。神社東側にある民家の裏手は広い草原となっていた。「尼崎神社案内」によれば、「まわりは新興の住宅で埋まっているがひなびた、いかにも村のほこらといった趣の小さなお宮が建っている」とある。私が見た神社の鳥居や社殿は再建されて新しいものであった。細い道路に面して石の明神鳥居。「白木神社」の扁額と細い注連縄。社殿は向拝付の入母屋造。銅板葺の石造。鳥居の横から低い白の柱が荒垣を造っている。鳥居の下から平石を敷き詰めた参道が社殿まで敷かれている。拝殿と本殿が一つの社殿となっている。参道の左右にある石灯籠や狛犬も新しい石造のものが置かれていた。鳥居の右にある荒垣の内側に神社の案内板、その背後に手水舎。更に奥に境内社の「松岡稲荷大明神」の朱色の明神鳥居と朱色の切妻造の小さな社殿が石の台座の上に置かれている。境内地百坪程。楡の木が多い。

当社の創立について、神社の説明板の説明は他の神社のものとほゞ同じである。即ち「当地の産土神天手力男命は、神代の昔、天の岩戸に引きこもられた天照大神を、岩戸を開き…篤く信仰されている。当社の創祀は詳らかではないが、享保年間(一七一六)発行の摂津誌に…」と善法寺町の白井神社と同様の記載がある。善法寺の神社と同じ由緒を持つ神社であることを示している。「尼崎神社案内」は「創祀の由来は不詳である。明治六年村社に列せられ、大正四年には神崎須佐男神社に合祀されたが、氏子の強い要望により昭和二十三年に元の奉斎地に社殿再建のうえ遷座され、現在に至っている」とある。「尼崎地域史事典」にも同様の説明がある。そして、この地域が渡来系の人々が開いた村であるところから、白井神社は新羅神社と同じとしている。更に、「巡見使通行御用の留」(市史6)をひいて、額田の白井神社が18世紀後期ころに「白井天王」であったこと、更に、「摂津名所図会」巻6が、穴太の白井天王祠の祭神を白山権現と記していることを説明しているる。現在の社殿は昭和六十二年に改築したものである。例祭は十月十日。境内社稲荷社。

(東京リース株式会社・顧問)




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