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兵庫県の新羅神社(19)

2 海神社と韓国神社

新撰姓氏神別天孫の条には、「但馬海直」の名がみられ火明命の後と記されている。但馬氏、即ち出石氏を指すのであろうが、この祖が丹後半島にある籠神社の神官と同じであるということは、物部氏と同じ氏族であるということになる。旧事記に「天火明命六世の孫建田背命は神服部連海部直丹波国造但馬国造等の祖なり」とあり、海部直伝(中巻)には「応神天皇三年始めて諸国に海部、山部を置き海部直命を以って但馬の海人を領せしむ」とある。直は姓の一つであるので、これは既に大和王権の時代であろうが、それにしても円山川の河口に有力な海人族が居住しており、北部九州、出雲、丹後、若狭や朝鮮半島などと交易を行っていたものと思われる。海部は漁業や交易を主とした氏族であろう。また、円山川の河口には海(あま)神社がある。大綿津見命を祀るとされるが一説には天火明命の六世の孫建田背命とも言われている。いずれにしても但馬氏の本貫地であるので但馬海直の子孫で海部の集団を統率していた者であろう。現在は円山川にかかる港大橋を渡った場所である。橋の左岸には絹巻神社があり、左右で対に祀ったのであろうか。背後に山、前面に円山川があるので、増水の時には被害が及んだと思われるが、境内に鰐岩と呼ばれる磐座があるので、古くからの鎮座地と考えられている。周辺の古墳では、円山川の河口部・城崎町今津に小見塚古墳があり、古い形態の円筒埴輪を持ち、主体部は粘土槨と推定され、波文帯の三角縁神獣鏡が出土しており、築造は四世紀後半と云われている。円山川を少し下ったところにケゴヤ古墳と二見谷古墳群があり主体部は横穴式石室で内部に家形石棺を納めるものや金剛太刀を副葬する例が見られる。

3 韓国(からくに)神社

円山川の河口近く、丁度、JR城崎温泉駅の東側に当たる辺りに、楽々浦(ささうら)という地区がある。この地区には楽々浦という湖のような円山川の大きな入江湖がある。かつては、津居山湾の入り海で、日本海を行き交う船が停泊する場所であったと思われる。この地から南東に入ると山に囲まれた低地にでる。飯谷(はんたに)という集落である正確には飯谷落シガ谷。余り大きくない集落であるが、飯谷川が集落の中を流れている。神社は集落の中ほど小さな橋を渡った山裾にある。山裾の道は車の車輪が土手から落ちるほどの狭い坂道。社殿は山裾に抱かれて建っているので鳥居と石灯籠以外は森の中で見えない。入口にはキノコ(茸)のような形の大きな自然石の燈籠がある。奥にある鳥居は下が両部鳥居、上は明神鳥居の合成のような形。参道は舗装されて幅も広い。石で造った鳥居の前に「韓国神社」の石碑が建っている。石碑の裏には「元物部神社、御祭神物部韓国連真鳥命―城崎郡司物部韓国連墾麿命―当地方開拓の祖神なり」と記載されている。入母屋造りの拝殿と本殿があり弊殿もある。本殿と弊殿はいずれも薄い朱色の瓦屋根であるが弊殿は銅板のようであるが、秋で落ち葉がいっぱいたまっており、古い歴史を感じさせる建物である。拝殿の中には唐門付きの神殿が置かれている。冬の雪に備えたものであろう。祭神は物部韓国連真鳥命(もののべからくにのむらじまとりのみこと)、相殿に城崎郡司物部韓国連墾麿命(はりまのみこと)(渚鳥(すとり)ともいう)。社名の由来について「祭神物部真鳥命は武烈天皇の勅を奉じて韓国に使し、その功により韓国連の姓を賜った。それで当初物部神社といったが、いつの頃からか韓国大明神、また震旦国大明神と称するにいたった。明治初年の神社調べの際に、韓国神社として届け出て現在に至っている。鎮座の由来については、もともと、宮津にあったが、往古はそこまで海で舟が着いたといわれ、神社所在の津であるが故に宮津といった。現在地落シガ谷については二説あり、一つは昔の姥捨だったといい、一説には字ミサビから木材や薪を運ぶ近道として落とした処であるという」(港町誌)。

(東京リース株式会社・顧問)




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