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鯉になった僧興義

鯉になった僧興義


琵琶湖文化館(大津市)横の湖岸は、大物の野鯉(野生種)が掛かることで知られる釣り場です。 1メートルを優に超す大鯉が何度も報告されています。 近年、琵琶湖に大量に放流されるようになったヤマトゴイと違って野生の鯉は、胴体が丸く、 横から見ると流線型を成していて、ずっと精悍な姿形をしています。
 
野鯉


ひと頃、はやった唄に「およげ!たいやきくん」があります。 鉄板を逃げ出して、毎日、広い海を楽しげに泳いでいたたいやきくんも、 腹ペコで喰らいついた釣り針に掛かって釣り上げられ、おじさんに食べられたときには、 少し焦げのある、ただのたいやきに戻っていました。 そんな話が、1000年前の三井寺にもありました。


『雨月物語』(上田秋成)に収められた「夢応の鯉魚(りぎょ)」です。 平安時代の中頃、延長年間の三井寺に、興義という名の、絵の巧みな僧がいました。 実在の人物と伝え、『諸家体系図』などによれば、興義は文章博士・藤原実範の第六子で、 三井寺の碩学であったとあります。


興義は、寺務の合間に琵琶湖に小舟を浮かべ、漁師から買い取った魚を湖に還してやり、 その魚の遊ぶさまを描くことを喜びとしていました。 あるときは、自ら眠りを誘って夢の中で魚と戯れ、目醒めてすぐ描く。 こんなことを重ねるうち、ある日、水を泳ぐ興義に湖神の使いが現れていいます。


「湖神がおっしゃるには、あなたは日頃から放生の功徳が多い。 いま、魚の遊びを願うなら、金色の鯉の服を授け、水中の楽しみをもっと味わせてあげよう、と」


こうして一匹の鯉になった興義は、琵琶湖狭しと心のままに泳ぎまわります。 しかし、お腹が空いて、漁師の釣り餌に喰いついてしまいます。 漁師は身の丈1メートルばかりの大きな獲物を役人の邸に持ち込み、 料理人がまさに研ぎ澄ました包丁で切ろうとした瞬間に、興義は目を醒まします。
 
刺身にされそうになった興義
(『雨月物語』より)


その後、興義は長生きをして天寿をまっとうしますが、 亡くなる前に、自分が描いた鯉の絵数枚を琵琶湖に散らしたところ、 鯉は絵を離れて水に泳ぎ入ったといいます。 そのために、興義の描いた鯉の絵は世に伝わらないのだそうです。


魚の話といえば、智証大師の三井寺再建の奇譚にも鮒(ふな)が出てくることが『今昔物語』に見えます。 大師が宗門を興すため探し求めた寺の僧房の一室に老僧が一人いて、 仕事は琵琶湖の鮒を獲って喰うこと、部屋に散在する鮒のウロコや骨はひどくにおっていました。


大師が訳を尋ねると、老僧は、この寺は弥勒菩薩の出現まで伝えるべき貴い寺ゆえ、 すでに160年住んで守ってきたが、やっと師が現れたので、この寺を譲り、 師に帰依しますといいます。老僧は、実は三尾の明神でした。 先の僧房に戻ってみると、鮒のウロコや骨と思ったものは蓮の華を鍋で煮たもので、 馥郁とした香りに変じていたということです。


ちなみに「夢応の鯉魚」は、その後、明治になって、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)により、 もう一度、「僧興義」として甦ります。『雨月物語』を下敷きに、外国向けに英文で再話したもので、 興義の夢と現実のはざまを美しく幻想的に描いています。






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