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日本霊異記(三)

前号に引き続き善因善果の因果応報の説話を見てみることにしましょう。今回は観音さまに纏わる話を二題紹介します。まず「観音菩薩を信じ祈ったことにより、この世で善い報いを得た話」と題するものです。

行善(ぎょうぜん)法師は高麗(こま)(朝鮮半島の古代国家)の国で仏教を学んでいました。しかし、高麗の国が滅んで諸国をさまよい歩いていた時、ある川にさしかかると、橋が壊れ船もなく、川を渡ることができずにいました。行善は壊れた橋の上でひたすら観音菩薩を祈りました。すると、一人の老人が船に乗って迎えに来て、行善を川向こうに渡してくれました。渡り終わって振り返って老人を見ると、もうその姿も船もありません。行善はこれは恐らく観音さまが老人の姿をして現れて、自分を救ってくださったのだと思いました。行善法師は観音菩薩の像を造って信仰する誓いをたてます。

その後、行善は唐に行き発願(ほつがん)のとおり観音像を造り、日夜心を込めて敬い奉ったので、世間の人々は行善のことを川辺の法師と名付けたといいます。唐の皇帝からも重用されますが、養老2年(716)に無事帰朝しました。その後は奈良の興福寺で造像した観音菩薩を供養したということです。編者の景戒(きょうかい)は「これによって観音のすぐれた霊力は、まことに不思議で偉大であることが理解できるであろう」と結んでいます。

次に「観音の木像の助けによって、国王から処罰を免れた話」。武蔵国多摩郡(むさしくにたまのごうり)の大真山継(おおまやまつぎ)は蝦夷討伐に派遣されます。山継の妻は夫が賊難から逃れられるようにと観音菩薩の木像を造り一心に供養しました。そのため夫は災難もなく無事任務を果たして帰ってきました。仏の加護を喜んで夫婦ともども観音菩薩像をさらに供養しました。

何年かの年を経て、天平宝字8年(764)12月に山継は藤原仲麻呂の乱に加担したとして処刑されることになります。次々に仲間が斬首され、いよいよ山継の番になり処刑されようとした時、勅使が駆けつけてきて「この中に大真山継がいはしないか」と尋ねます。「おります。今その男を斬り殺すところです」。勅使は「山継を殺してはいけない。信濃国に流罪にするにとどめよ」と命じました。その後流罪も許され、朝廷に召されてついには郷里である武蔵国多摩郡の次官に命じられました。山継が処刑を免れ命を全うしたのはまさに観音菩薩の救いによるものでありましょう。『観音経』にも「臨当被害(りんとうひがい) 称観世音菩薩名者(しょうかんぜおんぼさみょうしゃ) 彼所執刀杖(ひしょうしゅうとうじょう) 尋段段壊(じんだんだんね) 而得解脱(にとくげだつ)」と、同じ状況が説かれています。

(梅村敏明)



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