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霊仙三蔵

三蔵とは経・律・論、すなわち釈尊が説かれた教えである「経」、サンガ(僧団)における規律を示す「律」、後の時代に経を解釈・研究した「論」、これらに精通した高僧に与えられる最高位の称号です。私たちが三蔵法師と言えば西遊記でなじみの深い玄奘(げんじょう)三蔵を思い浮かべますが、その三蔵法師の称号を皇帝より授与された日本人僧が一人います。それが霊仙三蔵です。

霊仙は近江国醒ヶ井(さめがい)(米原市)の出身と言われています。と言いますのは、阿波国出身説もあるからです。私は近江者ですから、そうであってほしいとの気持ちをもって稿を進めます。

天平宝字3年(759)、近江国多賀郡の豪族である息長氏(おきながうじ)の出身。18歳で奈良の興福寺に入ります。法相を研鑽し、延暦23年(804)、第18次遣唐使団の留学僧(るがくそう)として入唐(にっとう)します。この時の遣唐使団の規模はおよそ600名。4隻立ての船団で、第1船には遣唐大使と空海、第2船には遣唐副使と最澄、そして霊仙たちが乗船しています。結果的にはこの2隻だけが入唐を果たしています。当時の航海の危険さを示しています。

霊仙は長安で般若三蔵に師事し、梵語(サンスクリット語)の修学に努めます。810年、時の皇帝憲宗の命により、新出の梵夾(紙ではなく貝多羅(ばいたら)樹という植物に書かれたサンスクリット語のお経)の漢訳に従事します。般若がサンスクリット語で書かれた原文を読み、それを霊仙が漢字に翻訳します。そうして完成したのが「大乗本生心地観経」です。この功績によって霊仙は三蔵法師の称号を皇帝より賜ったのです。さらに驚くべきは、この経典が大正2年石山寺で発見され、その巻末に「醴泉寺(れいせんじ)日本国沙門霊仙筆受并譯語」とあって、霊仙がサンスクリット語を聞き取り、漢語に翻訳したことがはっきりとしたためられていたのです。

所期の目的を果たした最澄、空海は無事帰国して天台宗、真言宗を開き、今日の繁栄の基盤を築いたことは、今さら言をまたないところであります。一方、唐に留まり皇帝に重用された霊仙は再び祖国の土を踏むことはありませんでした。彼の地で才能を認められ、日本僧で初めての三蔵法師の称号を授与された霊仙は、最澄や空海に勝とも劣らぬ平安時代を代表する僧侶であったのです。

仏教を篤く庇護した皇帝憲宗は反仏派により暗殺されてしまいます。身の危険を感じた霊仙は長安を逃れ、五台山に隠棲しますが、天長4年(827)毒殺され、68歳の生涯を閉じたということです。もしも帰国が叶っていたら日本仏教は・・・。

(梅村敏明)



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