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大坂の峠

烏嶽山観音寺(奈良県香芝市)烏嶽山観音寺(奈良県香芝市)

古代と現代

二〇二〇年六月、葛城の修験は、和歌山県庁が中心となった取り組みによって、日本各地に存在する地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリに認定される日本遺産の一つとして文化庁に認定された。

日本遺産の制度は、これまでの有形・無形の文化財等に対してとられていた保全・保護を主目的としていた政策とは異なり、地域に点在する有形・無形の文化財群をストーリーでパッケージ化し、一体的な整備や活用、発信することで地域活性化を図るものである。

特色は、地域住民のアイデンティティの再確認や、地域のブランド化を高め、観光などによる経済の活性化から持続可能な地域社会の実現を目指したものである。

二〇一五年より、第一期の認定が始まり、二〇二〇年に最終の認定が行われ、全国で一〇〇数ヶ所が認定を受けた。

日本遺産の認定は各地域にとって地方創生、観光などの大きな推進力となるはずであったが、二〇一九年末より世界全体に広まったコロナウイルスにより、世界中の流通や観光は大きな影響を受け、日本社会においても様々な影響が現れた。特にウイルスの拡大は人間の移動によるものであるため国内観光の自粛や緩和においては混乱を招いた。

人類と疫病との戦いは歴史上、数えきれず続いてきたものであるが、日本の疫病への対策の古い例は崇神天皇の時代に見られる。

疫病が流行した時に崇神天皇はお告げにより、大田田根子を探し出して三輪山に神を祀らせ、大和への西の出入口である大坂に黒盾と黒矛、東の出入り口の墨坂に赤盾と赤矛を祀ったという。

境界に盾と矛を祀ったということは出入りを厳しくしたということであると考えられるから、現代的にいうならばロックダウンのようなことを実施したということかもしれない。


大坂峠

奈良県香芝市周辺から西の河内へ至る一帯は大坂山とよばれ、大坂峠とは、この大坂山を越える峠であったと思われる。

諸山縁起等には大坂峠に二十七経塚があったと記されているので、大坂山にあたる一帯のどこかに二十七経塚が存在したのであろう。

二十七経塚については明確な地を導き出すことが困難であり、諸説ある中で、個人宅の敷地内の候補地が定着している。

二〇一七年の秋、諸山縁起や葛城峯中記に見られる資料などでは二十七経塚は大坂峠と記されていることから、それらの文献の情報からみても、一般的に訪れやすいという観点からも二十七経塚の候補地を探すことを試みた。

無論、ここが確実に二十七経塚であるという決定的な地を探すというのではなく、文献的に、それほど無理のない候補地の一つを探すという試みである。

葛城の修験では「諸山縁起」や「葛城峯中記」、「葛嶺雑記」など経塚の位置を記す資料は、多数存在している。

それらの資料では経塚の位置や行所に変遷があり、現在の葛城の修験は、どれか一つだけ特定の資料をもとにして構成されているのではなく、様々な時代の記述や伝承を複合的に捉えるのが一般的であり、経塚や行所においても所在や解釈に様々な見解がある。


田尻の経塚

これまで経塚の位置の探索には、それほど手にすることのなかった「葛城修行灌頂式」(『日本大蔵経』修験道章疏二所収)を読み直していると、妙荘厳王本事品に「田尻」と記されていることが目に留まった。諸山縁起や峯中記などでは大坂峠という広い範囲を示す地名が用いられているが、葛城修行潅頂式では二十七経塚の地を「田尻」と特定しているのである。

「田尻」とは奈良県香芝市の地名であり、大阪府と奈良県の府県境付近に位置する。「田尻」とは奈良県香芝市の地名であり、大阪府と奈良県の府県境付近に位置する。

香芝市周辺から西の国分(大阪府柏原市)などに至る一帯を大坂山といい、これを越えるのが大坂峠であったと考えると、大坂峠の範囲中には田尻も含まれるといえる。

河内国分寺塔跡(大阪府柏原市)河内国分寺塔跡(大阪府柏原市)

田尻とは大坂山を越える関屋越や田尻越という道の名前に使われるように、まさに大坂山に存在する地名である。

もちろん、諸山縁起や峯中記に記される他の経塚の位置は葛城修行灌頂式と大きく異なるので、諸山縁起、峯中記の「大坂峠」が「田尻」を指すとは限らないが、部分的に葛城修行灌頂式の記述を参考にすることは問題があるとはいえないであろう。

いたずらに経塚や行所の地に新しい説を唱えるときりがないが、葛城修行灌頂式では田尻と明記しているのだから、二十七経塚が田尻にあったとみることは不自然とはいえない。


烏嶽山

田尻に経塚の候補地らしき場所は存在していないかと探索してみたところ、田尻には三輪神社という小高い丘の社に隣接する烏嶽山観音寺という寺院があることがわかった。

観音寺の本尊は十一面千手観音菩薩像であり、楠木正成が敵の矢を射かけられた時、観音像が身代わりとなって楠木正成は無事であったという伝説から「身代わり観音」と呼ばれている。

この寺院が、峯中記などが記された時代に修験者の行所であったことを示す記述は見当たらず、田尻の経塚がこの地であるとはいえないが、注目されるのは「烏嶽山」という山号である。 峯中記には二上山の項目に「九十九 萬歳堂 祓戸 烏嶽」とあり、諸山縁起でも九十六番目の項目に「烏嶽」と記されている。

烏岳(奈良県葛城市)烏岳(奈良県葛城市)

これらの烏嶽は二上山の支峯である烏岳(三〇八米)を指すものと思われるが、烏嶽山という観音寺の山号をみると修行者が田尻を通っていた場合、観音寺と葛城の修験に何らかの関連があった可能性も考えられる。

葛城修行灌頂式では田尻を二十七経塚と記していることに基づいて、観音寺の御住職に二十七経塚の候補地の一つとして参拝することが可能かどうかお訊ねしたところ、快諾して下さった。

そのような経緯で、二〇一七年の三井寺の葛城修行ではこれまで訪れていた二十七経塚の地と、さらに観音寺を候補地の一つとして巡ることとなった。

二上山から亀の瀬に至るルートとしては二上山から屯鶴峯を北上するか、穴虫を経て田尻に進み、国分に出て亀の瀬に至るか、田尻から明神山に抜けて亀の背に下るかのどちらかである。田尻の観音寺を経塚の候補地の一つとして考えても葛城修行灌頂式では田尻を二十七経塚と記していることに基づいて、観音寺の御住職に二十七経塚の候補地の一つとして参拝することが可能かどうかお訊ねしたところ、快諾して下さった。

そのような経緯で、二〇一七年の三井寺の葛城修行ではこれまで訪れていた二十七経塚の地と、さらに観音寺を候補地の一つとして巡ることとなった。

二上山から亀の瀬に至るルートとしては二上山から屯鶴峯を北上するか、穴虫を経て田尻に進み、国分に出て亀の瀬に至るか、田尻から明神山に抜けて亀の背に下るかのどちらかである。田尻の観音寺を経塚の候補地の一つとして考えてもルート的には問題はない。

大坂の地は崇神天皇の時代に疫病が流行した後にも歴史の舞台となっている。

武埴安彦命旧跡(京都府精華町)武埴安彦命旧跡(京都府精華町)

崇神天皇に対して、武埴安彦命が山背で兵を起こし、その妻の吾田媛は大坂より兵を起こしたというのである。結果、大彦命と彦国葺命の軍によって武埴安彦命は討たれ、吾田媛は吉備津彦命に討たれて争乱は鎮められる。争いの要因は多々あるであろうが、疫病によって人心や社会が、おおいに乱れたことも無関係とはいえないであろう。

歴史の遺産を活用し、持続可能な社会を目指す上で、もっとも大事なことは歴史に学ぶことである。








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