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石川県の新羅神社(2)


二、田鶴浜町白浜に鎮座する白比古神社

地名の白浜の「白」は斯羅、即ち新羅という意味らしく、金達寿『古代朝鮮と日本文化』によれば、
『朝鮮の国名に因める名詞考』(今村鞆)に「白浜は能登国鹿島郡田鶴浜の西に隣る。 『延喜式』白比古神社此所にあり(『神祇志料』)。白比古は新羅神の謂にや」と説明している。 古事記上巻の『大年神の系譜』には「其の大年神……次に 韓神(からのかみ)、次に曽富理神(そほりのかみ)、次に白日神(しらひのかみ)……」とあり、 ここに登場する白日神は明るい太陽の神の意であるが、 新羅の日の神(ひのみ)子のことである(安達巖『出雲王朝の軌跡を辿る』)という。 水野祐『日本神話を見直す』も、白は新羅の古称が斯羅・斯盧・新良であり、 更にその元の名は斯(し)であった。羅は国土の意。従って白日神は新羅の神であるという。 権又根『古代日本文化と朝鮮渡来人』も、白比古神社は「新羅神社」であると述べている。 九州筑紫野市にある筑紫神社の祭神は白日別(しらひわけ)命と五十猛命であり、 白日別は素盞鳴尊の別称といわれている。

『田鶴浜町史』によれば、祭神は猿田彦大神、天照大神で あり、由緒については、本社は鎮座の年代詳にせざるも延喜 式内の神社である。延喜の制国幣小社に列せられ従三位に陞 叙せられたりと伝えられる。中比石船明神、または白髭明神 と称したりと。大正十一年六月二日神饌幣帛料供進社に指定 せらる。明治四十二年四月二十日無資格社、神明社を白比古 神社に合併す。
祭祀・例祭   四月十八日
氏子戸数    九十四戸
境内坪数    二百一坪
建造物       本殿・拝殿・鳥居・狛犬
 伝説          白比古神は海上より石船(いわふね)に乗って白浜海岸の黒岩(くるわ)に登臨し給うたという。 此の地点は石船崎で今の黒岩である。黒岩はタブの老木があって、根と枝がはびこっている。 また『田鶴浜町史』によれば、能登地方には漂着神(寄り神)の信仰のある神社がたくさんあります。 私たちの町の川尻にある荒石比古神社と、白浜にある白比古神社の氏神様も、 海上を石船に乗って上陸されたという漂着神の伝説をもつ神社です。

荒石は古くはアライン、アラント、ツヌガアラシトと読まれ、 白比古神は海上より石船に乗って白浜海岸の黒岩(くるわ)岩に登臨し給うた。 大石で少名彦命の像であるという。この地点は石船崎で、今の黒岩である。 古くから石舟明神とか白髪明神といわれた。いわゆる天孫降臨の伝承である。

これと同じような物語が朝鮮半島に残っている。『三国遺事』には、
「新羅・阿達羅(あだるら)王の四年(157)に東海の浜辺で藻を採っていた 延烏郎(よんおらん)という男がいた。 ところが延烏郎が乗っていた岩が急に動きだして彼を日本に運んで行ってしまった。 それを見ていた日本の国人が、この人は普通の人ではないとして国王にした。 延烏郎の妻の細烏女(せおにょ)は……岩は細烏女も日本に運んだので、 国王となった延烏郎は妻を貴妃にした。 二人が日本に行ってしまうと新羅では太陽と月の光が消えてしまった。……」
という説話になっている。天孫降臨と太陽信仰が日本にもたらされたことを示している。

神社の祭礼についても、町内の神社には各神社毎に種々の獅子舞が伝わっており、 白比古神社のそれは秋分の日に行われているが、小学生による棒ふりと百足獅子舞が主流となり、 四種類の演技が行われる。キョウブリの芸態は中島町の熊甲系の演舞であるといわれている。 このお祭りは中島町の「お熊甲」と似ており、両地区の獅子舞も熊甲系の特色があることから、 現在の中島町と深い関係があったものと考えられています、と説明されている。

これらの記事をみても、白比古神社の祭神は天日槍などと同じように半島から渡来した新羅・加羅系の神である。 都怒我阿良斯等神と同神であるのかも知れない。新羅の王子であった可能性も強い。

平成十一年二月には田鶴浜町の三引遺跡から国内最古とみられる 縄文時代前期(約六千年前)の丸木船の櫂(かい)が出土、 鹿の角で作った釣針も出土し、当時から船による釣漁があったことが証明された。


三、中島町の久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこ)神社

一、神社は田鶴浜から「のと鉄道」で約十分。能登中島駅からタクシーで約十五分の距離にある。 中島町は能登半島の中央に位置し、東は七尾湾に望み能登半島と相対している。 七尾湾は牡蠣の養殖場。中島町は熊来川に沿った街である。 万葉集の新羅斧で有名な熊木の入江に面した町であり、
「梯立(はしだて)の 熊来のやらに 新羅斧……」
「梯立の 熊来酒屋に まぬらぬ奴 わし……」
など、熊来の地名が見えている。万葉集巻十六の能登国の歌は三首とも熊木郷に係る歌である。 越中守の大伴家持が、天平二十年(七四八)に国内巡回の際に詠んだ歌にも熊木郷が登場しており、 当地方が古くから栄えた地域であったことを示している。

久麻加夫都阿良加志比古神社の宮司婦人・清水修子氏より 『お熊甲祭』(中島町教育委員会の小冊子)をいただいた。 宮司の清水直記氏は、私が訪ねる約三か月前(平成六年)に他界されており、 お目にかかれなかった。神社の由緒書等もいただいた。 小冊子には熊木郷の歴史等、参考になることが多く記載されていた。

この地方は古代は熊来郷、中世は熊来荘と呼ばれたようである。 熊来の由来は『お熊甲祭』(中島町教育委員会)によれば、 熊来は熊木とも書き、熊木川中流域に位置する。 地名の由来に二説あり、一つは熊甲社の祭神が渡来系人格神であることと結びつけるもの、 高句麗(高麗(こま))よりの渡来人定住地としての高麗来(こまき)、 或いは高麗柵(こまき)の転化であるとするもの。 他の一つは三方を山に隈(くま)どられた隈地(くまち)・隈城(くまき)からきたという説である。 ”き”は”城”で、要塞の地としている。光岡雅美『韓国古地名の謎』によると、 柵は”村”の意味であると説明している。

いずれにせよ朝鮮半島の国々との関係が深い。新羅の斧が既にあったことを考え合わせると、 先の福井県今庄町の例と同じように、多分新羅系の人々が先住しており、 後から高麗・百済系の人々が住んだのであろう。平安期には延暦十四年(796)熊木院が置かれ、 正税である稲を収納していた。 また承平五年(九三五)に編集の『和名類聚集』の中の熊木神を久麻岐と訓んでいる。

この郷の域内には大小の古墳群が存在しており、熊木川流 域の中島山岸(やまんた)古墳、河崎古墳等、八十七か所の遺跡がある。 熊甲社に近い天神橋の近くに上町マンダラ古墳群がある。 二、当神社は古来、熊甲(くまかぶと)社、熊甲明神と呼ばれ、 一般的には「おくまかぶと」の名称が有名である。 祭神は久麻加夫都阿良加志比古神、都怒我阿良斯止神の二神。

神社は熊木川の上流、宮前地区にある。道路に面して両部鳥居(1650年の建造)が立っており、 鳥居の脇には神社名を彫った石柱が立っている。この鳥居は明神鳥居の柱の前後四隅に控え柱を設け、 本柱と控え柱との間に控え貫を付けたもので、両部習合神道とのつながりの影響を示しているといわれている。 なお、境内には摂社「薬師社」があり、大穴牟遅命、少毘古名命を祭っている。 古来より「正一位熊甲大明神本地薬師如来」として信仰が厚かった。 また当神社の末社が、古く熊木郷と呼ばれた土地に十九社程あり、社名は異なるが、 総本社と同様の祭を行っている。

当社は『延喜式』記載の神社であり、 能登国・羽咋郡十四座の一つ「久麻加夫都阿良加志比古神社」であるといわれている。 祭神は阿良加志比古神・都怒我阿良斯等神の二神である(『神社明細帳』)。 『社伝』(貞享二年来歴書)によれば、神社の創建は崇神天皇(三世紀中頃)の時代に遡ると記載され、 神亀三年(七二六)七月二十七日社頭造営の棟札が存在したと記されている。 一般には阿良加志比古神は在地本来の地主神であり、 都怒我阿良斯等神は渡来系人格神であるといわれているが、恐らく二神とも渡来系人格神である。

『お熊甲祭』記載の社記及び神社社務所発行の由緒記によれば、 祭神の二神は「韓国の王族」で、「阿良加志比古神」については地神、 或いは三〜四世紀頃の南朝鮮の阿羅国(弁辰の地方)の王族ともいわれており、 現在の鎮座地方を平定され、その後守護神として祀ってあるという。 これもまた、いわゆる天孫降臨伝説である。

出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)






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