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京都府の新羅神社(6)

また『三室戸寺文書』享保四年(一七一九)には当寺が智証大師と係わりがあることを記している。「宇治郡明星山三室戸寺観音は、西国巡礼所光仁天皇勅願中興、智証大師開基、これにより…」とある。三室戸寺も織田信長の焼き討ちで多くの史料を失った。三室戸寺に社寺の由来を尋ねたところ、次の様な回答を頂いた。「当山は三井寺の別院で寺門派の寺でした。修験道も兼帯致しておりましたので、聖護院の末となっていました。そういうわけで当山開創以来、三井寺(園城寺)より新羅社を勧請し、お祀りして参りました。中古(室町期)の古図にも記載されておりますが、以前は現場所ではなかったようです」。
 
『宇治郡神社明細帳』によれば、明治に十八神社の西方の地から小字奥ノ池の現地に移転された。また、『宇治郡名勝誌』によれば、「明星山三室戸寺は大字菟道にあり。天台宗中本地垂迹寺にして京都聖護院末、本尊は千手観音にて左右に不動明王、毘沙門天を安置する。当寺は光仁帝の御宇宝亀年間(七七〇―七八〇)に禁中に奇瑞あり。…其後伽藍大像共に焼亡す。…寛平年間(八八九―八九七)三井寺の智証大師当寺を中興す…。康和年間(一〇九九―一一〇三)三井寺の隆明大僧正(関白道隆の孫)白河上皇及び堀河帝の勅を奉じて当寺を中興し…。文明年間後土御門帝の勅を奉じ三井寺阿弥陀院の一阿及び公文所、岩渕法眼伽藍を今の地に再興す…。境内九五三坪」とある。また『三室戸寺縁起』にも同様な記載がある。十八神社由来と共に考えると、当地には智証大師円珍が中興する以前に大物主命を祀る三室(御室・御諸・三諸)神社が創建されていて、当地の人々の信仰の対象になっていたものと考えられる。これは、いわゆる出雲族や新羅国と関係があったものと思われる。なお当寺には朝鮮から請来されたという吊鐘の龍頭が残されている。また、三室戸寺本堂の東方を流れる戦川にある不動滝の右岸に立つ不動尊石像は智証大師の刻んだ「爪彫りの不動尊」といわれている。


三、三室戸寺の十八神社と新羅明神

かつて新羅神社は現在の十八神社の西隣にあった。この十八神社も智証大師と係わりが深い。社殿に由緒書がある。「鎮座地は奥ノ池であり三室戸寺本堂の上座である。祭神は大物主命、熊野樟日(久須毘)命、手刀男(天手刀雄)命。由緒、創建年代不詳。明治七年までは、三輪山の三神、伊勢神宮の内、外の宮、日吉、八幡、住吉など多くの神々を祀っていた。
 元々は三室村の産土神として奉られ、三室(御室)神社と称した。承和七年(八四〇)智証大師が三室戸寺を創建するにあたり、本山の鎮守神として山王信仰にまつわる十五神を合祀、十八神社と改称。明治六年、神仏分離政策により一時廃社となったが、翌年現在の御祭神をもって村社として復活。境内にあった新羅神社は明治十年、大鳳寺の厳島神社に遷座された。本殿三間社流造。こけら葺。造営年代、文明十四年(一四八二)重文。例祭、十一月三日。…十二月には許波多神社で十八神社、厳島神社、の合祀祭がある」

『宇治誌』(宗形金風)には十八神社の由緒に諸説あることを紹介している。即ち、府社寺課の『社寺課台帳』によれば「熊野権現,十八明神、新羅明神の三柱。別記には大神宮、稲荷大社、子守社。…光仁帝の宝亀年間(七七〇〜七八一)よりも既に迅く、大物主命を祀る三室神社が創建せられて地方民の崇敬する所となす。…尚ほ、大物主命以外の奉祀神に就て一言触れる必要あるは、『社寺台帳』中に搭載さるる新羅明神に就いてである。即ち、三室戸寺が現今の寺務所である金蔵院を修理中に発見した棟札にも「十八大明神、新羅大明神、両社御遷宮同時、明応三年(一四九四)九月八日」とあって、後土御門帝の頃、既に新羅明神が併祀されており、後、明治七年十五柱の併神を廃祀しても依然として社寺課の台帳中には同名を数ふるのである」。古くからの産土神としての神社があった場所に三室戸寺が後に創建されたということであろう。


四、 厳島神社と新羅神社

三室戸寺から歩いて二十分くらいのところに厳島神社がある。厳島神社の社殿と並んで新羅神社の社殿がある。この地は明星山から続く低い山岳地帯の麓であるので畑や農家が点在している。三室戸寺へ行く途中の道を左折する。古い石の道路標示がある。「左うじ、みむろどう道。右こうだく、上のだいご道」とある。道路の左右に旧家が並んで建っている。旧家の梅林家の隣りに神社の入り口がある。道路に面して神社の標識と四面火袋の石灯篭が二基立っている。灯篭の背後に石の明神鳥居があり、平石を敷いた坂道の参道が延びている。途中から石段。参道の左右は白壁の塀である。境内地は広く百坪か百五十坪位ある。鳥居は西向き。境内の右側には大きな楠のような木が何本も茂っている。小さな川もある。その奥に幣殿と社務所を兼ねた入り母屋造の建物がある。境内の左奥が神社の社殿である。手前が新羅神社、奥が厳島神社である。社殿は南向き。
(東京リース株式会社・顧問)





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