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京都府の新羅神社


両社とも社殿の周囲は透塀で囲まれて、正面には夫々簡素な四脚門を持っている。社殿の形は異なっており、厳島神社は唐破風、新羅神社は切妻造の屋根である。本殿の建築は厳島神社が流造、新羅神社は春日造である。新羅神社は一間社造で側面は白壁である。正面に「新羅大明神」の扁額が掲げられている。祭神は須佐雄之命、五十猛之命。例祭十一月一日。厳島神社の祭神は市杵島姫命である。この新羅神社は先に見たように、元々、三室戸寺の十八神社の隣にあったものを明治十年大鳳寺村の厳島神社に遷座したと「十八神社の由緒書」に記載されてあった。
 すると、三室戸寺にある新羅神社とはどのような関係であろうか。恐らく明治の神仏分離の際に、三室戸寺から新羅神社を分離して境外に移したものが、現在三室戸寺にある新羅神社であり、その神社の分霊を大鳳寺村に移した、ということか、元々大鳳寺村にあった新羅神社が、いつの時代にか、三室戸寺の新羅神社へ合祀されていた舎を元に戻したかのどちらかであろう。大鳳寺村には新羅神社の信者が多いので、もともと、大鳳寺村にも新羅神社があった可能性が強い。
 
新羅大明神扁額当社の由緒については、社伝を始め多くの文献があるが、『宇治誌』の説明は次のようになっている。「祭神は市杵島姫命。相殿には誉田別命・菅原道真・熊野樟日命・倉稲魂命が奉祀され、境内には大神宮・新羅神社(須佐雄之命・五十猛之命)の二社ある。元大鳳寺村の鎮守で祈雨のため祀られたと伝えられる。光仁天皇宝亀八年(七七七)祈雨の霊験により、翌年春三月、中臣朝臣諸魚が初めて社殿を造営されたとの由緒があり、明治三年迄は、俚人弁財天と称していた」という。また『山城名勝誌』などを見ると当社の創基の年代は相当古く、当地方が大阪湾や琵琶湖の外港として発達しており、三室津が水運や漁業の中心であったので、その守護神として祀られていたものと考えられる。神社の隣の梅林家の夫人に尋ねたところ、「父が生きていれば知っていたと思います。母は九十四歳ですので…。厳島神社は厳島より勧請した神のようですが、新羅神社については知りません。当神社は村で祀っております。弁天祭りといいます。なお、宮林家が祀ったという話もあるようです」。
そこで宮林家にも尋ねてみたが、「宇治市史の程度しかわかりません」とのことであった。


新羅神社本殿当神社のある一帯は、古代に大鳳寺なる寺が存在したことから考えると、新羅明神はその寺の守護神であったものであろう。大鳳寺は天台宗の寺であった可能性が強い。当神社のすぐ近くにある浄土宗の安養寺も元は天台宗の寺であったといわれている。現在、大鳳寺は廃寺となり址はない。

 なお、当地方は古代葛城王朝があり、崇神の三輪王朝に敗れたため、その後大和王権に対する反抗勢力の拠点となったといわれ、反乱伝承が多い。開化天皇の異母兄武埴安彦が妻吾田媛と共に崇神朝に反乱、また垂仁天皇の時代にも開化天皇の孫の狭穂彦王が皇后狭穂姫に託し、天皇殺害を謀てた。なお、葛城系の子孫には近江ともゆかりのある息長帯姫命がいる。

出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)






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