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修験道

修験道


日本が世界に誇るサル学の草分け、今西錦司は、登山家としても知られていました。 大峯山(おおみねさん)釈迦ケ岳が国内の1,000山、大台ケ原白鬚岳が1,500山登頂となりました。 山に登る理由を次のようにいっています。 精神や身体の健康にいいのはもちろんだが、自然とふれあうことによって、目や鼻や耳などの五感を鋭くし、 言葉や文字を使うことで鈍くなった直観力を本来に甦らせるためだと。 学問の原野を切り拓いてきた今西にとって、新たな研究の方向を定めたものは、その直観力によってでした。


古来、山には神が宿るとされてきました。現在も、深山の霊性を疑う人はいないでしょう。 その山を修行の場として、神霊と一体となることを目指した日本独自の自然宗教が、 仏教伝来以前のわが国にありました。修験道(しゅげん)です。


修験道は、峻険な山を道場として、五穀(粟・稗・麦・豆・米)を断って木食(もくじき)となり、 草衣(葛や藤の繊維で編んだ衣、あるいは木の葉)を身にまとい、自らに苦行を課します。 窟籠り(いわおごもり)(禅定(ぜんじょう))や山林とそう(頭蛇)(ずだ)、断食断水、不眠不動。 究極は、自分の身を焼いたり(焚身)(ふんしん)、生き埋めになったり(入定)(にゅうじょう)、 断崖から飛び降りたり(捨身)して、自然の中に肉体を消滅させてしまうというのです。 それほどの苦行を積み重ねて過去から現世に犯した自己の罪や穢れ(けがれ)をあがない、 精進潔斎によって山に実在する神霊と交流し、その呪力の一部を頂いて、病気や災い、 凶作などの原因となる罪障を滅ぼし、また預言託宣の験力(げんりき)を得ようとしました。 自分は永遠の人生を生き直し、衆生には済度が自在にできるように。


修験道は、役小角(えんのおづぬ)(役行者(えんのぎょうじゃ))を開祖とします。 七世紀末です。彼は、空を飛んだり、奈良の金峯山(きんぶせん)と葛城山(かつらぎさん)とに橋を架けたりと、 とてつもなく伝説に彩られた人物ですが、呪術を使って民衆を惑わしたとのかどで、 文武天皇三年(699)に伊豆に配流された記事が『続日本紀(しょくにほんぎ)』に見えることが、 実在の証拠となりました。そこへ、天狗や善鬼、さらには、 神武天皇が吉野で出会ったと伝承される尻尾のある人間、生尾(せいび)(『古事記』序文)など、 いまだ天然の霊性を失わない異形(いぎょう)のイメージが付加されたと思われます。
 
行者堂前に立つ
役行者石像



時代は下って平安末期から、修験道は密教の儀礼を取り入れます。 天台系修験は三井寺を開いた智証大師円珍に受け継がれ、 長吏増誉によって同寺の別院、聖護院を本寺とします(本山派)。 「三井修験」と称される所以です。一方、真言系修験は、 空海から理源大師聖宝(しょうぼう)によって醍醐寺三宝院に集結することになりました(当山派)。 その後、正統な系譜は、近世、木食行者につながれ、その中に円空が登場します。


円空は、江戸前期に広く活躍した美濃の僧で、晩年、北海道に渡って土地を開き、 農業を奨励し、各種の事業を興すとともに、大いに仏教の布教に努めたため、 「今釈迦」と讃えられた人でしたが、むしろ、一二万体彫像の悲願を立て、 ナタ一本で刻んだ粗削りな神仏像が幾万にもなったことのほうが有名でしょう。 彼は聖護院で修験となることを嫌って、本山三井寺で山伏となりました。 現在、円空が奉納した木像が八体、当寺金堂(本堂)に安置されています。
 
三井寺金堂に納められている円空仏


深緑の季節を迎えて、五月には修験の聖地、大峯山は山開きし、大勢の現代の山伏行者たちで賑わいました。 また、七月二十二日には、三井寺行者堂前広場に設けられる護摩壇において、 恒例の「本山採灯大護摩供」が厳かに修されます。
 
本山採灯大護摩供






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