浅村朋伸の「世界一周自転車旅行記」 三井寺ホームへ

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灼熱のバロチスタン砂漠 VOL.18

クエッタの町並み

この町を訪れるバックパッカー達がよく利用するという「ムスリムホテル」は、あいにく満室だった。近くで見つけた「デラックスホテル」をのぞいてみると、ダブルの部屋をシングルと同じ料金で使ってもいいと言われたので、迷わずにチェックインした。荷物を運び込んだ後、ホテルの前で、出発準備をしているオランダ人のバイク旅行者に出会った。彼は、これから砂漠を横断するのだという。バイクなら跨っているだけで前に進むので簡単に砂漠を越えることができるだろう。彼は気楽そうに出発して行ったが、僕は砂漠へ突入するための準備が未だに整っていない。

まず、自転車のチェーンを日本から送ってもらうように頼まないといけない。タイヤやワイヤーなどは、町の自転車屋で手に入るので、それらの交換。そして、何より、砂漠に関する情報の入手。ネパールのカトマンズで、パキスタンの地図を見て以来、バロチスタン砂漠に関する情報を探し続けてきたが、何の手がかりも得られないまま砂漠の入り口までやって来てしまった。情報がなくては、これより先へは進めない。Eメールで日本の友人に必要な物を頼み、その代金を送金してからは、町をぶらつく生活が始まった。

毎日、何をするかということをベーカリーに向かいながら考え、そこで買ったパンをチャーイ屋で食べながら予定を練った。大抵はさして、いい案は浮かばず、結局はドーナツやジュースを手にしながら、山に囲まれたこの町をぶらぶらすることになる。あっちこっち歩きながら、これと目をつけた現地の人間に話しかけて、砂漠について情報を聞き込むのだが、やはり簡単には欲しい情報が手に入らない。町を歩いていると、いつも通りかかる自転車屋でカラフルなタイヤが目に付いた。そういえば、砂漠に入る前にタイヤを交換しておいた方がいいと思い、値切ってそのタイヤを買い求めた。

クエッタはアフガニスタンとの国境に近いせいで、アフガン難民の多い町だった。町で現地の人間と話をしてみるとアフガン人であることもしばしばあった。難民といっても自分たちで商売をやっている者が多く、中には成功している者もいる。驚いたことにアフガン人も緑茶を飲む習慣があるらしく、アフガン人によってもたらされた緑茶を町の中で飲むことができた。これまで紅茶一点張りの旅を続けてきたので、緑茶が飲めるということが何より嬉しかった。体を休ませるという点では、クエッタはさして悪い町ではなかった。町は標高が高いせいか、暑いとはいっても平地のように暑すぎず、ラホールなどよりは過ごしやすい。気晴らしには、中国人が経営する本物の中華料理店でラーメンを食べることができた。

夜中に目が覚めた。いつものように僕の部屋は散らかっていた。部屋の電気は消していたが、トイレの電気が点けっぱなしになっていることに気が付いた。立ち上がって消しにいかなければいけないと思ったが、体を起こすのが面倒臭い。動きたくない。せっかく目が覚めたのだから、何かをしたいが動く気にならない。何かをするきっかけにと手元にあったビートルズのテープをかけた。(どうすれば砂漠を越えることができるんだろう?)ベッドに寝転んでいると、いつもその疑問が湧き上がって来る。いつまでたっても砂漠の情報が全く手に入らないのだ。このままでは、自転車のチェーンが、日本から到着したとしても砂漠に突入することはできない。動いてはならない時には、動いてはならない。焦ることなく準備しなければならない。滞在が長引けば長引くほど、時間や金を浪費することになるが『予算内でカルカッタからパリまでの距離とニューヨークからロスまでの距離を自転車のみで走れば、どこで金を使い、時間を割こうとも自由』というのが自分に与えたルールなのだ。

向かいのベッドにはトイレの明かりに照らされて、エアメールの封筒が何冊かの本に混じって見えた。買っておいたのはいいが全然誰にも出していない。分厚い英和辞典も放り出されている。持ってきたのはいいが、ちっとも使っていない。どうしていつも、こうなのだろう。何もやる気がないのに何かをやろうとする。僕は、しばらくベッドの上の様々なものを眺めていた。

立ち上がってビートルズのテープを止め、トイレの電気を消しに行った。ふと手紙を書いてみようと思ったがやめた。英和辞典で何かの単語を引いてみようと思ったが、それもやめた。何かが僕に重くのしかかっているようだった。考えなくても正体は、はっきりわかっていた。バロチスタン砂漠、それが目の前にある。逃げたければ、逃げることはできる。しかし、そこから逃げ出すことは、指を動かしてビートルズのテープを止めることよりも、立ち上がってトイレの電気を消すことよりも難しかった。ここから逃げ出せば、後の人生を後悔と共に生きていくか、自分に対する言い訳を続けなければならないのだ。

クエッタに着いて6日目、いつものように町をぶらついてホテルに戻ると、一人の日本人がフロントで僕を待っていた。

「アサムラさんですか?」

名前を尋ねられて僕はびっくりした。不思議に思って聞けば、彼はトルコのイスタンブールからインドのカルカッタ目指して、自分と同じように自転車で旅をしている途中だった。逆方向から同じように自転車で旅をしている僕のことを、隣のイランで出会った旅行者から聞いていたのだという。詳しく聞いてみると、イランで彼が出会った旅行者というのはラホールでビールを共に飲んでいた友人であった。そして、僕がこのホテルに泊まっていることをバイク旅行のオランダ人に聞いて、訪ねてきたらしかった。ホテルの前で出会ったオランダ人が、砂漠を越えた後、僕のことを彼に告げてくれていたことを知って驚いた。あのオランダ人に出会ってなければ、彼はこのホテルへはやって来なかっただろう。
「パキスタンとインドについての情報を聞こうと思って来たんですよ」と彼は言った。なんということだろうか。逆方向から来たということは、すなわち砂漠を越えてきたということである。砂漠についての情報が聞けるのだ。

僕は興奮していた。これ以上のタイミングはない。ネパールのカトマンズ以来、ここまでずっと、探して手に入らなかったバロチスタン砂漠の情報を、僕のことを人づてに聞いて訪ねて来た日本人の自転車旅行者から直接聞くことができるなんて、天文学的な確率だ。僕は急いで部屋に戻り、地図をとってきて、話を聞かせてもらいながらメモをとった。彼は集落の存在位置や、宿泊施設の有無などを詳しく教えてくれた。

話によると、問題は強烈な熱風で、自転車による前進は困難らしく、時折の砂嵐では視界は10Mになり、なすすべはないというのだ。彼は走行中に砂嵐に遭遇し、あまりの激しさに、通りがかったトラックに乗せてもらいながらも、通過した各集落の情報をメモしていた。これから旅先で出会う人間に提供したり、所々のホテルに置かれている情報ノートに書き込みするのだという。後から来る旅人のことを考える彼のような人がいる御蔭で、どれだけの人間が助かるか計り知れない。

また、国境を越えてからのイランについても詳しく教えてくれた。同じ自転車旅行者の情報だけに知りたかったことを全て聞くことができ、何もかもが貴重な情報だった。こんなにありがたいことはなかった。僕は彼にパキスタンとインドについて記録しておいた情報をできる限りわかりやすく提供した。

彼の完璧な情報と僕の些細な情報の交換が終わると、クエッタに着いたばかりだった彼は、ホテルに戻って休むことにすると言って、宿に帰っていった。

僕は自分の部屋に戻って、聞いたばかりの情報を整理することにした。(これで砂漠を越えることができる)目の前の視界が一気に開けたようだった。のしかかっていた重たい何かが一瞬にして消えてしまった。

偶然とは思えない偶然だった。もし、あの日、ラホールで友人にあってなければ、もし、バイク旅行のオランダ人にあってなければ、もし、ネパールで一ヶ月を過ごしてなければ、言い出したら全てを挙げないときりがない。この地球上で、こんなことが起こるなんて、奇跡以外の何ものでもない。全てが必然的に導かれたように、僕は砂漠を前にして、砂漠を突破する黄金の鍵を与えてもらった気がした。

「やれる。絶対にやれる。やってみせる。絶対にやらなければならない」

分解されたまま部屋に置かれている自転車を見ながら、何度も一人で呟いた。あとは無事にパーツが届くかどうかが問題だった。

クエッタに到着して14日目、待ち望んでいた自転車のチェーンが、日本から届き、早速、交換して外を走ってみると、高速ギヤも中速ギヤも何の問題もなく使えた。「よし、これでいける」あれ程不安だった砂漠に早く飛び込んでいきたかった。ホテルに戻って宿泊料金を精算し、翌日のチェックアウトを伝えた。ついにクエッタを出発する時が来たのだ。

早朝、自転車を表に出し、荷物を装備した。自分の精神状態を確認してみたが、何の不安もない。町を出る前に緑茶を飲んだ。少し肌寒い朝にはとても美味く感じる。ゆっくりと、二杯の熱い緑茶を飲んだ。

この先に待ち受けるのは600kmのバロチスタン砂漠。いよいよ、このときがやってきた。僕の設定したユーラシア大陸横断ルートにおける最難関。僕は自転車で町を出て、長い坂を下り、熱風の吹き荒れる砂漠へと突入していった。自転車に積んだ水と残された距離を計算しながら水分を補給し、ペダルを踏み続ける。これといった問題もなく自転車は砂漠を進んだ。夕方になって、最初の宿泊予定であるヌシキに近づいた。村は幹線道路から右に数キロ入ったところにあるはずだった。舗装されてない道を不安になりながら進むと確かに村があった。入っていくと、店が並んでいて、きちんと水も食料も手に入る。なんということだろうか。砂漠に囲まれた土地で人々が生活している。なぜ、こんなところに暮らしているのだろう。日本でぬくぬくと育った僕にはよくわからない。とりあえずホテルを探してはみたが、なかなか見つからず、何度も人に訪ねて、ようやく宿泊施設を見つけた。入り口に簾をたらした土壁の部屋が中庭を囲んで集まっている宿だった。部屋の灯りをつけようとすると、電球が切れている。従業員に「電球が切れている」と言うと、イスに乗って苦戦しながら交換してくれた。部屋の灯りが点くことを確認すると「どんなもんだい、これで大丈夫だぜ」というような顔で従業員達は笑顔を見せた。

外に出て、ジュースを飲みながら町を歩き、必要な物を買い揃える。水を買っておかないと次の朝に買おうとしても出発の時刻には、店は開いてないので、早起きすることがわかっているときには、予め買い物を済ませておかないといけない。食事を済ませて宿に戻ると、中庭で数人の若者が話し合いをしていた。彼等は僕を見ると、礼儀正しく自己紹介をして、話し掛けてきた。

彼等はバローチ民族の将来について勉強会を開いていたのだという。バローチ民族とは、この一帯、すなわち、パキスタンからイランに広がるバロチスタンと呼ばれる土地に生活する民族であり、彼らの中には今も遊牧民として生活しているものも多い。パキスタンは多民族国家であり、政権はパンジャビー民族によって成っているため、バローチ民族は他民族が不平等な政治を行っている現状を何とかしたいと思っているようだった。

「この先のパダクという集落の4km程、南のところで政府による核実験が行われたんだ」

彼らの一人が言った。そういえば、以前に、そんなニュースがあったことを思い出した。インドとパキスタンの間に緊張が高まり、インド政府が核実験を行ったために、パキスタン政府も対抗したのである。驚いたのはインド人だけでなく、バローチ民族の彼らだ。自分達の生活圏で核実験が行われたのだから。

「影響はあったのかい」と僕は聞いた。

「赤ん坊に奇形児が多く生まれるんだ。皆が、この辺で採れた野菜を食べるせいだろう。水もだめなのかもしれない」

「この土地はバローチ民族のものであったはずなんだ。それを政府の奴等が自分達の都合のいいように使っているんだ。鉱産資源は全部、政府が持っていってしまう。そのくせ、我々には何も与えない。水も食料も教育も与えない。旅行者の君はペットボトルの水を飲んでいるが、我々は家畜が飲む水と同じ水を飲んでいるんだ。生活は最低だ。奴等がしたことと言えば、この土地の資源を持ち去るための道路を整備しただけなんだ。我々は道路なんかより、水や教育を与えて欲しいんだ。でも、我々には政府に抗議する手段も力もない。今の政府はパンジャビー達だけにとって有益な政府だ。海外からの援助も政府のせいで我々には何ももたらされない。海外のジャーナリスト達は、我々に何の興味もないから、この現状はどこにも伝わらない。このままでは我々バローチ民族には将来はない。でも我々は、この土地で、どうすれば仲間や、子孫が希望をもって暮らしていけるようになるか話し合うために集会を開いたり、子供達に英語を教えたりしているんだ。彼等は自分達の土地と仲間を愛しているのだと教えてくれた。

日本では、水や教育などという彼らの要求する何もかもを当たり前のように与えられている。しかし、それはここでは当たり前でも何でもないし、未来の子供達のためにそれを手に入れようと、こうして集会を開いている若者達がここにいる。諦めることなく自分達の努力で生活をより良いものへ変えていこうとしているのだ。彼らの真剣な話し合いを聞いていると日本で生活に不満を感じたこともなければ、生活環境を改善しようと思ったこともない自分が子供っぽく感じた。まるで、水温を管理された安全な水槽で定期的にえさを与えてもらっているグッピーのようだ。

翌朝早く、ヌシキを出発して次の集落であるパダクを目指して走り出した。パダクへは10時過ぎに到着した。昼飯を済ませ、水を調達した。この集落で宿泊することも考えたが、昼前にストップするというのはもったいない気がした。ヌシキからパダクまでは予想以上に順調に走ってきたので、ダルバンディンを目指すことにした。ダルバンディンは地図にも載っている大きな町で、立派なホテルがあると聞いていたので早くこの目で見たかった。

パダクを出発すると、これまでとは一転して、いきなり風が強くなった。横から吹き付けてくるので思うように自転車が進まない。時おり、風向きが変わると道の端から反対車線の端まで一瞬で体を持っていかれる。風が耳に殴りつけてくるのでやかましい。イライラするので顔を横に向けても、たいして音は変わらない。風は暑さと、音と、ペダルの重さを倍増させて僕が砂漠を越えようとするのを妨害しているようだった。

しばらく走っていると、小さな竜巻が近づいてくるのが見えた。前に一度竜巻には接触したことがあったので、今回も接触してみることにした。吹っ飛ばされた前回と違って、今度は立っていられるように、干上がった川に架かる橋の縁石に踏ん張ってやり過ごすことにしたが、竜巻に接触した瞬間、バランスを崩した。踏ん張ったところに足場がない。僕は橋の上から転落した。高さは2m程しかなく、下は砂地であったが、転落した瞬間、足をやられたことを直感した。踏ん張っていた縁石と自転車の間に、足を挟まれながら落ちたのだ。自転車をどかして足を見ると脛がパックリと開いている。傷口は真っ白だった。

「しまった」

なんということだろうか。砂?骨?肉?頭が混乱している。見ると、砂は一粒も入っていない。とすると骨?しかし、骨なら痛みはもっと激しいはずだ。何だろう?肉に血が流れていないだけなのか。

僕は、しばらく仰向けになって大の字に寝転んでいた。寝転んでいる場合ではないのはわかっているが、気持ちがいい。誰も何も言わない。命にかかわることでも、ここでは誰も何も言わない。誰もいないのだ。このまま寝転がっていれば死ぬ。立ち上がらなければ死ぬ。でも少しの間、寝転がっていたい。自分が置かれている状況を考えることを放棄したかった。地熱と太陽と熱風が僕をジリジリと焦がしていた。

僕は我に返った。何をしてるんだ。死んでしまうじゃないか。こんなところで寝転がっている場合ではない。慌てて体を起こした。まず水を飲め。僕は自分に命令して、水を10口飲んで息を落ち着かせた。普段は1kmにつき4口しか飲まない貴重な水だが、今は頭を元に戻すことが一番大事だ。僕の頭は正常に戻りつつあった。まず自転車を起こした。道に自転車を戻して異常がないかチェックした。フロントフォークの向きがずれていたが壊れてはいない。そして、自分の足の状態を確認した。体重をかけられるかどうか、動かしても問題はないかどうか。何とか足は動いた。僕は自転車に跨って、なるべく体重をかけずに片足の力でペダルを回転させながら、前進した。

怪我をしたことでスピードは落ちたので、残りの距離と速度を元に水を飲むペースを計算しなおさなければならなかった。ようやく、頭の中で計算ができたと思ったら、砂嵐が襲ってきた。(何もこんな時にやってこなくてもいいじゃないか)僕は顔を歪めた。

全身に砂が吹き付けてくる。前が見えない。聞いていた通り、本当に視界は10メートル程度になった。視線を下にやると道の上を砂がザーッと這っている。まるで砂の川だ。前が見えないし、砂が体中に襲い掛かる。熱風だけでも前進が困難なのに冗談ではない。自転車を漕げる状態ではないが、無理矢理に少しずつでもとにかく進むしかない。止まっていては、水が足りなくなってしまうだけだ。砂嵐が、いつまで続くのかわからなかったが、とにかくペダルを踏み続けた。ペダルさえ踏み続ければ、いつかは町に到着するのだ。町が自分を待っているのだ。

数時間に及ぶ、砂嵐との格闘の末、ダルバンディンの町に到着した。聞いてはいたが意外と大きい。長く続く町をなめるように見ながらホテルへ向かった。これだけの町なら何でもあるな・・・そう思わせるに充分な大きさだった。これが砂漠の真ん中にある町なんて誰が信じられるだろうか?

ホテルにチェックインするとシャワーも浴びずベッドに倒れこんだ。ホテルは最近停電続きで電気はつかず扇風機も廻らない状態だった。何かうまいものが食いたかった。何か自分に褒美を与えたかった。誰も文句いわないだろう。だって今日は頑張ったのだから。町に繰り出そうと決めて起き上がり、シャワーを浴びた。傷に水が入らないように体中の塩と砂を洗い流した。髪からは洗っても洗っても砂が流れてきた。耳の中の砂は完全に洗い流すことを諦めるしかなかった。

町を歩くとやはり大きかった。肉が食いたかった。マトンの大きい塊が食いたかった。どの店が一番安くてうまそうか順番にのぞいて歩いた。雑貨店を見て歩いているとインスタントフードがちらほら目に付いた。パキスタンの料理に厭きていたのか日本人であるせいなのかインスタントフードが食いたくて仕方が無かった。そこをこらえて、レストランに入りマトンを頼んだ。高いのを頼めば大きいのが出てくるだろうと思って、注文したが出てきた物はずいぶん小さかった。他のパキスタン人達は少し大きめのうまそうな肉を食っているように見える。違う肉を注文しているのだろうか?よくわからないので別の店でもう一度、肉を注文した。それも高くて小さな肉だった。イメージしていた物とは違っていた。満足を得ることができないままホテルに戻ることにした。確実に想像通りだったのは舌に残ったチャ−イの甘ったるさだけだ。所詮、こんなもんさ、と心の中でつぶやきながらホテルに戻った。早く寝ないと明日は一番、長い距離を走らなければならないのだ。

ノッククンディーに到着すれば砂漠は殆んど終わったも当然だった。必要なことはわかっている。ここから逃げ出すためには、走るしかない。全く他に手段はない。走る他ない。それはわかっている。立ち止まっていたら水と時間が、どんどんなくなっていく。熱風が顔を吹き付ける。水が欲しい。全身の細胞の意見が完全に一致している。目の前の勾配を上りきったらプールが待っていないだろうか、と下らないことばかり頭に浮かぶ。しかし、行けども行けども、人が一人としていない、おぞましい地平線が続くばかりだ。何キロ進んだんだ?まるで蟻地獄に落ちたようだ。何キロ進んだんだ?必死にもがいているのに抜け出せない。

「ここで持っている水を全部飲めばいいじゃないか。喉が渇いてるんだろう?水があるのに何故飲まないんだ?」何度も熱風はそう語りかけてくる。僕の心の声が聞こえる。誰もいない、砂の地平線に囲まれた砂漠。湿度0、気温は50度を超える。ドライヤーのような熱風がゴーゴーと顔を焦がす。熱さで顔を前に向けることができず、イライラする。風で自転車が前に進まない。全く進まない。何もかもがイライラする。水が入ったペットボトルを見ながらペダルを踏む。水の揺れを見ていないと頭が狂いそうだ。

あれから何キロ進んだ?口に中がカラカラに渇く。つばを飲み込もうとしても口の中がペタッと張り付いて息ができなくなる。渇くのは口の中だけではない。体を流れるはずの汗さえもが渇いて目に見えなかった。何もかもが渇いていた。ここでなら考えられそうだった。当り障りのない生活、何一つ頭痛のタネのない生活、何もかもが円滑な生活、自分が、それを望んでいるのかハッキリさせようじゃないか、僕は自分に、そう問いかけた。考えていると僕は、さらにイライラしてきた。自分がそんなことを考えていることにイライラした。答える代わりに僕は叫んだ。止むことのない砂漠の熱風や僕をいらだたせる全てをかき消そうとした。叫んでも無駄だということはわかっていたが、それを認めるわけにはいかなかった。

日が落ちれば風は止まると思っていたが、真っ暗になっても風は止まない。時計は夜8時を過ぎていた。いつまで走れば辿り着くのだろう。いくらなんでも時間がかかりすぎる。水が少ない。持っている水を飲めない。夕方に風が止んでスピードが上がると思っていたのに計算が狂ったのだ。9時ごろになってようやく風は勢いを落とした。「さあ、ここからが勝負だ」僕は何度も自分に言い聞かせた。それが計算ミスを自分でごまかそうとしている行為であることはわかっていた。延々と真っ暗な砂漠を走り続ける。道の横にあるマイルストーンを発見すると、記された距離を懐中電灯で照らす。思ったより進んでいない。体中が疲労しているが集中力は途絶える気がしなかった。どこまでも走れる気がする。自分に嘘をついてでもいいから走りぬかないといけないとわかっていた。僕は、どこまでも走れる、と自分に嘘をつき続け、騙され続けた。遠くに光が見えた。紛れもなく町の光りが見える。ノッククンディーだ。ノッククンディーの光を捉えたのだ。やった。遂に走りぬいた。

ノッククンディーに辿り着いたのは夜11時だった。真っ暗な町を走り、開いている店を探す。町の出口の近くで開いている店を見つけ、水を買ってがぶ飲みする。体に水がサーッとしみ込んでいく音が聞こえる。グルメ達が美味いものはアレだコレだと言ってはいるが、地球上で一番美味いのは水だ。これはもう真実だ。舌で味わっているうちは美味さなんてものはわからないだろう。グルメ達は、全身の細胞が「美味い」と叫ぶ声を聞いたことがあるのだろうか。土壁のレストランでマトンを食べて、ホテルがあるかどうか聞くと、ないということだったが、そのレストランの一室で寝かせてもらえることになった。

翌日、国境の町、タフタンを目指して出発すると、期待を裏切って風は吹いていた。今日で最後だ。何遍もそう自分に言い聞かせながら僕はペダルを踏み続けた。今までの距離に比べたらこれぐらいどうってことはないはずだ。もうイランは目の前だ。パキスタンともお別れだ。僕は時々、自転車を止めて景色を眺めた。この熱風と大地とも、もうすぐお別れかと思うと名残惜しかった。

ついに僕はタフタンに到着した。砂漠を越えた。人生でそんな経験が何度、訪れるのだろう。誰もいない大部屋に荷物を運び、何台も並んだベッドの内、風通りのいいものを選んで横になった。開けっ放しにした窓から、風がカーテンを揺らして足元から吹いてくる。全身の力が抜けていった。砂漠を越えた。日本にいたら今日だってありふれた日で終わっていたのかもしれない。だが、紛れもなく自分にとって特別な日であることを感じていた。当たり前の一日と特別な一日の差ってなんだろう?自分で決めているだけなんだから、365日、特別な日に決めればいいだけの話だが、そうなったら特別な日であることを感じなくなるかも知れない。結局、僕には毎日が特別であることに気付くのは難しいのだ。部屋にあった大きな鏡を見た。そこに映った顔は今まで見たことのない自分の顔だった。真っ黒に焦げた顔の額から鼻にかけてT字型に塩の結晶で文字ができている。他人が見ればおそらく笑ってしまうだろう。だが僕にとっては、今まで見た自分の顔の中で一番、自信にあふれた目をしている顔だった。鏡の中から他人のような顔で自分を見返している。これが自分?僕は鏡の中の顔が他人に見えた。早くこの別の誰かの顔を洗い流してしまおうと思ってシャワーを浴びることにした。砂や塩が流れていくのが気持ちよかった。あまり勢いは強くなかったけれど、全身を絡めていた砂漠という呪縛から解放されてゆくようだった。シャワーを浴び終わってもう一度、鏡を見ると、やはり自分ではないだれかが映っている気がした。

「パリまで連れて行ってくれ」

僕は鏡の中の顔に頼んだ。

「今夜は飲むか」と張り切ってタフタンの町に繰り出した。

飲むと言っても水のことである。パキスタンルピーをイランの通貨に闇両替して、余った金を持ってバザールをぬけ、レストランを探して飯を済ませ、うろつきながら水を買ってゴクゴク飲んだ。お腹がチャポチャポになるまで飲んだ。ずいぶん飲んだな。もう入らない。水なんて、もう飲みたくない。そう思いながらフラフラ宿へ戻ってそのままベッドに倒れこんだ。ベッドの上で大の字になって、目を閉じ、脱力した。まぶたの裏に、砂漠の地平線が浮かびあがる。ついに、あの砂漠を、パキスタンを突破したのだ。自分がやったのだ。こんなに気分がいいのはどのくらい久しぶりだろう。明日から待ち受けるのはペルシャの世界だ。言い表せない達成感と満足感とがあった。ベッドに寝ころんで、すぐに僕は睡眠薬を飲まされたように意識を失った。あれだけ怖かったバロチスタン砂漠を背後にして僕はぐっすり眠った。